足利義政が応仁の乱前に造営したとみられる庭園跡が見つかった室町殿。巨大な景石群が並んでいた(京都市上京区)

足利義政が応仁の乱前に造営したとみられる庭園跡が見つかった室町殿。巨大な景石群が並んでいた(京都市上京区)

 2020年の京都市内では、足利将軍家や豊臣秀吉といった中近世の武家支配者に関わる発掘調査が目立った。京都市を除く京都府内でも平安京以前の成果発表が相次いだ。コロナ禍に揺れた1年の、京都の考古・歴史学の成果を振り返る。

 室町幕府の将軍邸「室町殿」(京都市上京区)では、8代将軍・足利義政が応仁の乱前に造営したとみられる庭園跡が見つかった。3メートル近い長さの巨石を含む景石が8個並び、滝組を形成した。義政が「奇花珍石」を用いながら、祖父・義満による花の御所を好みの庭に造り替えてゆくさまをうかがわせる。

 15代将軍・義昭のために織田信長が築いた「旧二条城」跡(同)では、最中心部の内郭を囲った堀が確認された。幕府名の由来になり、当時メインストリートだった室町通を横切る堀は異例で、信長が防衛重視で掘ったのか、義昭が信長との敵対のはてに設けざるを得なくなったのか、研究者の見方も分かれる。

 秀吉が生涯最後に築いた「京都新城」の遺構が、京都仙洞御所内(同)で初めて見つかった。1597年、天皇の住む内裏南東側に築いた城跡からは、桐や菊の文様が入った金箔(きんぱく)瓦とともに、本丸を囲む自然石を丁寧に積んだ石垣、幅が推定約20メートルの堀が姿を現した。朝廷との関係を含めて、秀吉晩年の政権構想を考える手掛かりになる。

 江戸幕府による京都所司代跡(同)では、17世紀後半以降にできた木製の水路(木樋)を備えた庭池があった。池底より深い地下部は「逆サイホンの原理」という水面の高低差を生かして水を流す仕組みで導水しており、全国的にも類例がないという。

 一方、平安時代では同じ京都所司代跡で、平安京の主要道・大宮大路で、10世紀中ごろまで都の大路を横切る異例の水路があったことも確認された。また、平安前期の貴族・藤原良相(よしみ)の邸宅跡(中京区)では眺めを楽しむ遣水(やりみず)の原初形態を示す溝跡があり、貴族住宅「寝殿造(しんでんづくり)」の成立を考える遺構になる。

 東山区の五条坂にあった「入江道仙窯」では、近代の京焼窯が初めて全面的に考古調査された。

 府内では京丹後市の上野遺跡で後期旧石器時代前半の石器群が出土し、府内最古の3万6年前の遺跡と分かった。これまでの府内最古から9千年さかのぼる。これと同年代の最古級になる石器が福知山市の稚児野遺跡でも見つかった。

 また、古墳時代の貯水池や導水施設が亀岡市や城陽市で確認された。恭仁宮跡(木津川市)では中枢施設「朝堂院」の規模を確定する柱穴が見つかった。

 特別史跡・特別名勝の金閣寺(鹿苑寺、北区)庭園内では、工事が適切かどうかを確認する発掘調査があった。室町時代の土壇主体部に影響はなかったが、裾部を削る不適切な工事も明らかになった。この土壇を義満の北山大塔とする説はあるが、この調査でも直接的な考古的痕跡は見つからなかった。