明智光秀が領主である丹波国に神戸(織田)信孝が出した書状 (個人蔵、亀岡市文化資料館寄託)

明智光秀が領主である丹波国に神戸(織田)信孝が出した書状 (個人蔵、亀岡市文化資料館寄託)

 明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」を巡り、武家社会を研究する笠谷和比古・国際日本文化研究センター名誉教授(日本近世史)が独自の考察を示している。動機面は怨恨(えんこん)説や黒幕説ではなく、粛清(しゅくせい)を恐れた場当たり的な出来事と評する。亀岡市文化資料館の文書などをひもとくことで、個人的な確執にとどまらず、鉄砲足軽階層を軍団の中核に据え、より専制的な統治を志向した信長政権の構造的ひずみがもたらした帰結と読み解いた。

 変のいきさつでは、光秀が信長討伐の意思を幹部に示したのが、変の前日(1582年6月1日夕)だった点を強調。襲撃は京都の出入り口を封鎖せず、関係者が逃走した恐れも強く、「計画的な配慮が微塵(みじん)も存在していない」と話す。

 変の後、味方にしようと細川藤孝と婿・忠興の父子に宛てた勧誘状に『不慮の儀』と記した。半面、朝廷の意向や幕府再興といった理由は示されず、「陰謀性や黒幕的な謀略性は除外して差し支えない」とみる。

 唐突な決起の背景には、信長の軍制や統治の構造的ひずみがあるとみる。

 信長は長篠の戦い(1575年)で鉄砲のローテーション式射撃の有効性を確かめると、伝統的な騎馬士から鉄砲足軽中心の新軍制を志向した。騎馬士と歩兵の二手に分かれた変則的な調練『御狂(おくるい)』に取り組みつつ、宿老の佐久間信盛ら譜代家臣を粛清して没収した知行地や禄米を充て、より意に従いやすい鉄砲足軽階層を増強した。分国統治においても一君万民型の専制が進んだという。

 光秀が危機感を高めたのは、亀岡市文化資料館の寄託文書『神戸(織田)信孝直状』(1582年5月14日)の発給とみる。四国攻め総指揮官になった信長三男の信孝が、丹波国の武士を動員する内容。丹波を領国にした光秀の名はなく、「支配権を無視ないし頭越しに執行している」。

 折しも光秀が安土城で徳川家康の饗応準備するさなかの布告に対し、信長に「是正方を申し入れ、両者の言い争いに発展した」と推定する。だが、足蹴(あしげ)にされて饗応役を解かれ、変直前の毛利攻めの応援に追い立てられる流れになる。

 笠谷名誉教授は「畿内の武士領主を動員できる『畿内総管』という政権高位にあったはずが、この文書によって使い捨ての駒の一つでしかないと強く自覚したであろう。総管の前任が佐久間であり、その末路の運命まで降りかかる強迫観念から逃れられなくなったようにも思う。変は個人的な確執による反逆ではあるが、信長の政権構造による対立や葛藤のはての問題としてとらえられるべきだ」と話している。


 著書『信長の自己神格化と本能寺の変』(宮帯出版社)で考察を示している。2970円。