方広寺大仏殿の南築地塀跡の礎石2基。豊臣秀吉期の遺構となる(京都市東山区・京都国立博物館)

方広寺大仏殿の南築地塀跡の礎石2基。豊臣秀吉期の遺構となる(京都市東山区・京都国立博物館)

 豊臣秀吉が建立した方広寺大仏殿を囲んだ南築地塀の礎石2基が、京都国立博物館(京都市東山区)構内の発掘調査で初めて見つかったと京都市埋蔵文化財研究所が10日発表した。慶長伏見地震で倒壊した「真の太閤塀」の痕跡とみられ、秀吉期大仏殿を考える上で貴重な遺構とみている。

 礎石2基は0・55メートル×0・5メートル、0・95メートル×0・5メートルの大きさ。掘り下げた溝に沿って東西に据えられていた。上面に長方形のホゾ穴があき、築地塀屋根を支える寄柱と接合したとみられる。石を割る際に刻む矢穴が、1597年に秀吉が築いた京都新城と同じ形だったため、95年にほぼ完成しながら、96年の地震で大きく損壊した大仏殿遺構と判断した。

 調査地南側に残る三十三間堂の「太閤塀」は太閤と称された秀吉ではなく、子の豊臣秀頼が設けた築地で、柱間3メートル、高さ5・3メートルになる。市埋文研によると、今回見つかった礎石2基のホゾ穴の間隔から、柱間が3・3メートルとこれを上回るといい、「『真の太閤塀』は太閤塀より大規模だった可能性がある」とみる。

 また、この礎石と京博敷地にある石塁南西隅のホゾ穴を比較したところ、秀吉期の遺構であることも明らかになり、南築地塀の位置が確定的になった。

 これまでの発掘調査では、倒壊した築地に代わり、5メートル内側に築かれた回廊跡をはじめ、秀頼再建期の遺構が多く見つかっているのに対し、秀吉期は限られていた。今回の調査では築地塀を設ける際の足場の柱穴や排水路の溝(幅1・5メートル、深さ1・6メートル)のほか、溝から江戸時代に焼亡した大仏殿の焼け瓦や陶磁器も確認された。市埋文研は「建立時の大仏殿の姿を考える上で、定点を得る貴重な発見だった」としている。

 発掘調査は京博明治古都館の北東側敷地(約550平方メートル)で5月まで行う。礎石2基は地中保存する。新型コロナウイルス感染拡大を避け、現地説明会は開かない。