原文は永積安明他校注『日本古典文学大系84』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している。
 

 少し前のことだが、瑞々(みずみず)しく優美な女房がいた。貧しい暮らしはしていたが、見目形麗しい、魅力的な娘をもっていた。十七、八歳の年頃になったので、この子だけは、なんとか幸せになってもらいたいと思っていた。

 娘への愛情が募るあまり、石清水八幡宮へと思い立ち、娘とともに、泣きたいほどのつらい思いで参拝し、夜通し神の御前で、「私自身は、今となってはどのような状態でも生きていけます。この娘を安心できるような様子にしてお見せください」と、数珠をすって、涙を流しながらお祈り申したのに、この娘は、八幡に到着するやいなや、母の膝を枕にして、起き上がることもなく寝てしまった。

 日付も変わり、未明の暗がりの中で母が言うことには、「どれほど決意して、やむにやまれず心を奮い立たせて乗り物にも乗らず、徒歩でやっと参詣してきたというの。こうして夜通し、神の御心にも『あはれ』と思(おぼ)し召すほど祈願なさるのが当たり前でしょ。なのにあなたは、考えなしにすやすやと寝てらっしゃる。ああいやだ、何なのよ」とくどくど嘆いて叱(しか)るので、娘ははっと目を覚まし、「やむにやまれずやっとのことでやって来た心も山道も苦しくて…」と言い、

  この身のつらさを、生半可に口に出しては言うまいと思います。石清水さま。私が思い苦しむ心の内は、とうに汲み取り、お見通しでいらっしゃいますよね。と詠んだので

洛中洛外図屏風 /「洛中洛外図屏風」(歴博E本)右隻(国立歴史民俗博物館蔵)画面右の第一扇に、石清水八幡、大原野、山崎が、第二扇に伏見稲荷や東福寺、第三扇には方広寺、三十三間堂、五条橋、羅生門などが見え、下には桂川が流れる。第四扇は清水寺や東寺、第五扇に八坂の塔、神泉苑、第六扇には西行ゆかりの双林寺や松尾社他が描かれる
 

苦労して参詣、疲れてつい…

 こんなに苦労して徒歩(かち)で参り着いたのに。あなたときたら…。石清水対岸の大山崎は、桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川となる水陸交通の要衝だ。わざわざ徒歩での参詣を強調するのは、たとえば橋本まで船便で訪れる簡便さと比べて、信心の深さを訴える意図があろう。『徒然草』五二段の「仁和寺にある法師」も「年寄るまで石清水を拝まざりければ、心憂(う)く覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)より詣(まう)でけり」という。

 ところが法師は、男山の麓の「極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て」、先へ行かずに帰ってしまった。「そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と知人に語る。彼は、石清水八幡宮本殿が、山上にあることを知らなかったのだ。「少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしきことなり」。

 法師が見上げて踵(きびす)を返した男山は、都から歩いてきた女の脚にはこたえる。娘は、着くやいなや母の膝枕で熟睡して、夜が更ける。母は腹に据えかね激高したが、娘はあながち、間違っていない。熱心な参籠者ほど、神前仏前でふとうたた寝し、神仏は、眠りの夢の中に、高貴な姿を現前する(「文遊回廊」第17回)。

 人の気も知らないで、と母に叱られ、はっと目覚めた娘は、当意即妙の和歌を詠む。それは、和泉式部が貴船明神に詠みかけたような、神を動かす絶唱であった。石清水八幡は、九世紀に大分の宇佐八幡宮から勧請された(行教和尚の袖にうつり、と伝える)。憂さと宇佐、石清水と「言はじ」が掛詞。「汲みて」は清水の縁語で、心を推し量る意を掛ける。

 原文には大事な続きがある。娘の詠吟に「母もはづかしくなりて、ものもいはずして下向する程に」、奇蹟(きせき)の出会いが待っていた。「七条朱雀のへんにて、世の中にときめきたまふ雲客(うんかく)、桂よりあそびて帰りたまふが、このむすめをとりて車にのせて、やがて北の方にして、始終いみじかりけり」。時めく殿上人が、桂から帰宅の途次に娘を見初め、さっと牛車に抱き上げて、そのまま妻とした。二人は末永く、幸せに暮らしましたとさ。「大菩薩(ぼさつ)、この歌を納受ありけるにや」と建長六(一二五四)年成立の『古今著聞集』は閉じる。神祇を「大菩薩」と呼ぶのは、八幡宮独自である。桓武天皇は、即位の奉告で、宇佐八幡に「護国霊験威力神通大菩薩」の尊号を奉っている。ちなみに石清水には、古来、朝廷の勅使が派遣される勅祭として、石清水放生会(ほうじようえ)(現石清水祭)があった(旧暦八月十五日、現在は九月十五日)。賀茂祭(葵祭)、春日祭と並んで、三勅祭と呼ばれる大祭だ。

 「納受」は、神仏が人の祈願を受け止め、叶(かな)えてくれることをいう。ここは和歌の納受である。『古今和歌集』仮名序に「力をも入(い)れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をも哀(あは)れと思はせ、男女(をとこをむな)の仲をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武人(もののふ)の心をも慰(なぐさ)むるは、歌なり」とある。

 ところで、徒歩での参詣という説明には、他の含意もある。母娘はおそらく、市女笠(いちめがさ)を被った壺装束(つぼそうぞく)を身にまとい、人目に触れつつ陸路を行く。「見目(みめ)は果報の基(もとひ)」だ。華やぐ貴公子は朝方、「みめかたち愛敬(あいぎやう)づきたりける」容姿の娘を発見して、一目惚れ。天下の大路で、車に乗せて略奪した。それも、母が「世の中たえだえしかりける」不遇であればこそだ。立派な家柄の娘なら、かくも乱暴なシンデレラストーリーがあり得ただろうか。

 ただし母も、『伊勢物語』初段の姉妹のように「なまめく」女だったという。なまめく・なまめかしは、古語では瑞々しい若さをいうが、『徒然草』は「すべて神の社(やしろ)こそ、すてがたく、なまめかしきものなれや」、「具覚房とて、なまめきたる遁世(とんせい)の僧」など、神仏の形容にも用いる。彼女にも、選ばれし資質があったものか。

 八幡は武神で、源氏の守護神だ。娘を娶った雲客は、源氏の血を引くどなたかも、などと想像を膨らますのも楽しい。語り手と聞き手のキャッチボールで磨き抜かれた伝承文芸は、無駄がない。

 

石清水八幡宮(八幡市)

 麓からのケーブルに乗ると、山頂の本殿近くまではあっという間だ。それでも、南総門に至る古木が覆う参道を歩くうち、この山の厳粛さが伝わってくる。

石清水八幡宮の本殿。参道がやや斜めにつけられているのが珍しい(八幡市)

 創建は859年。平安京の裏鬼門(南西)に位置し、都の守護と国家鎮護、厄よけ、必勝の社として、朝廷はじめ公家や武家の信仰を集めた。特に清和源氏は氏神とあがめ、義家はここで元服して(社伝)八幡太郎を名乗り、二の鳥居近くには「頼朝公ゆかりの松」も。

石清水八幡宮

 頂上付近展望台からの眺望がすばらしい。木津、宇治、桂三川の流れを足元に、左に愛宕山、右に比叡山、その間に京都市内の大パノラマ―都守護の山となるわけだ。

 石清水は、明治の廃仏棄釈までは神仏習合の聖地だった。今も、仏教寺院の堂塔跡の礎石や五輪塔、石垣などが山の方々に残る。石段の続く表と裏の参道をたどれば、霊山の雰囲気がさらに色濃くただよう。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)