東日本大震災と福島第1原発事故が起きた後、住み慣れた故郷を離れ、京都に避難した人がいた。その多くは国が定めた避難指示区域の外から逃げてきた。社会からの孤立や経済的困窮など、数々の困難と直面した「京都避難者」の10年を二つの家族の姿を通して振り返る。

震災から10年の日々を振り返り、宇治橋でたたずむ小林雅子さん(23日、宇治市)

 「元気にしてた?」「最近、どこにも出掛けてなくって」

 2月19日夜。東京電力福島第1原発事故の影響で京都に避難する人たちが、ビデオ会議アプリ「Zoom(ズーム)」でつながった。タブレットの画面を通して、他愛のないやり取りが続く。10年前から不定期で続く避難者同士の対面交流は、新型コロナウイルス感染拡大を受けてひと月前から休止。気の置けない仲間たちとのおしゃべりに、小林雅子さん(52)=京都府宇治市=の顔がほころんだ。

 東日本大震災の翌日、福島市の自宅から60キロ離れた原発で爆発が起きた。煙を上げる原子炉建屋の様子が、テレビのニュース番組で繰り返し放映された。

 「放射能」と聞いてもピンとこなかった。でも、「チェルノブイリ以来の大事故」「炉心溶融(メルトダウン)」といった言葉を耳にするうち、恐怖が押し寄せてきた。

 2年前に自宅を新築したばかり。生まれ育った故郷を離れるなんて考えたこともなかった。仕事を抱える夫は福島を離れられない。一家ばらばらになると思うと、涙があふれた。でも、当時小学生だった長女茉莉子(まりこ)さん(20)の健康を思うといてもたってもいられなかった。

 京都府庁の担当窓口に電話をしたのは「なるべく遠くに逃げたい」と思ったから。紹介されたのは、福島県が公費で借り上げていた「みなし仮設」と呼ばれる住居だった。

 母子2人が身を寄せた桃山東合同宿舎(伏見区)には、この夏までに100世帯超が避難していた。

 宿舎では毎日のように立ち話に花を咲かせ、育児の相談をし合うこともしょっちゅうだった。居住者同士で花見やバーベキューも楽しんだ。

「もともと住んでいた場所も生い立ちも違う。だけど、放射能を避けたいという思いはみんな一緒だった。私にとって安心できる場所だったし、あの宿舎があったから、生きてこられた」

 ■住宅支援打ち切りで深まる孤立

 4年前、事態が一変した。除染で空間放射線量が下がったとして、福島県がみなし仮設の借り上げを打ち切り、自主避難者の帰還を促す考えを公表した。帰還の意思はなかったが、住み慣れた合同宿舎を退居せざるを得なくなった。宇治市内の府営住宅に入居が決まったのは19年2月。退居期限が1カ月後に迫るタイミングだった。

10年に及ぶ避難生活に思いをはせる小林雅子さん

 何よりも苦しかったのは、気心の知れた住民たちと散り散りになるさみしさだ。ストレスはピークに達し、目から出血するなど身体にも影響が出た。

 約8年続く京都避難者原発事故訴訟の原告団のメンバーでもある。原告約170人の9割近くは小林さんと同様、国が定めた避難指示区域の外から京都に避難した人たち。区域の内と外で行政の金銭補償に大きな違いが生じたり、「自主避難者」と呼ばれたりすることに納得がいかなかった。

「どうして私たちがこんな思いをしないといけないのか」

 事務のパート契約が満了を迎え、新しい仕事を探そうとした矢先に新型コロナが流行した。基礎疾患があり、買い物や通院以外は自宅でひっそりと過ごすようになった。

 宿舎で日々、顔を合わせた避難者たちとは簡単に会えなくなった。だからこそ、遠く離れていても「対面」できるオンライン環境が心のよりどころになっている。

 スマホの向こう側にいるのは、同じ境遇に打ちのめされながらも、ともに乗り越えようとしてきた仲間だから。

 タブレットの画面に笑顔を見せる母の姿に、長女の茉莉子さんはほっとした表情を浮かべる。

 母と支え合い、ゆかりのない京都で暮らしてちょうど10年。

 福島で生きたのと同じ、10年だ。

 最近、よく考えるようになったことがある。

 「私の故郷って、どこなんだろう」