震災後に避難した京都で成人し、大学のキャンパスに立つ小林茉莉子さん(2月19日、京田辺市・同志社女子大京田辺キャンパス)

 10年前、母と2人で京都に逃げてきた同志社女子大2年の小林茉莉子(まりこ)さん(20)は最近、自身のルーツに頭を悩ませる時間が増えた。

 昨春、キャンパスでこんなことがあった。所属する演劇サークルに新入生たちが見学にやってきた。自己紹介をする際、同級生と同じように自分の名前と学部を告げたところで、言葉に詰まった。

 「出身地は…」

 後輩たちが不思議そうに見つめてくる。でも、この短時間で、自分の生い立ちをどう説明すればよいのだろう。

 2011年3月11日午後2時46分。福島市にある自宅近くの小学校にいた。「ドンッ」という強い衝撃の後、突き上げるような揺れが3分以上続いた。棚の花瓶が床に落ちて割れた。教卓が自分がいる方向にすーっと迫ってきた。「ここで死ぬ」と思った。校庭に避難した後も、繰り返し余震が起きた。迎えに来た母の胸に飛び込んだ。死の恐怖は消えず、涙が止まらなかった。

大学の演劇サークルの友人と談笑する小林茉莉子さん

 原発事故で暮らしは一変した。

 自宅は原発から約60キロ離れていたが、周辺では局所的に高い放射線量が計測されていた。校庭で遊ぶのを禁じられ、肌を露出しないよう長袖と長ズボンで過ごした。大人たちの緊張感が伝わってきた。父を残し、母と2人で京都に避難すると決まっても驚かなかった。

 身を寄せたのは、京都市伏見区の桃山東合同宿舎。関西弁を話す同級生にたじろぎ、いじめられないか不安になった。イライラが募り、一時は母と口論することも増えた。

 それでも、10年がたち、京都への愛着は深まった。中学や高校、大学でできた友人に囲まれ、サークルやアルバイトに忙しい毎日を送る。避難生活を支えてくれた人たちへの感謝の思いから、海外の難民を支援するための勉強も始めた。

 故郷の方言、豊かな自然を懐かしく思う。でも、「自分の青春は京都に詰まっている。福島で暮らすことは、もうないかな」

 ■故郷に残った人たちとの分断

 福島県いわき市出身の京都府立大院生明智礼華(あやか)さん(28)は、東日本大震災が起きる数日前に地元の高校を卒業した。京都橘大に進学するのと同時に、母と妹の3人で山科区の山科市営住宅に避難した。

 大学では放射能について熱心に勉強し、卒業論文のテーマにもした。目に見えない放射能が人体に及ぼす影響を考えると、恐ろしくて仕方がなかった。

 次第に、福島に残る人々との間に溝を感じるようになった。高校時代の友人に避難を勧めると、こんな言葉が返ってきた。「福島に残った人にそんなこと言わないで」「状況を変えたいなら、学者か政治家にでもなればいい」

 家庭の事情や経済的な理由で避難できない人がいるのは分かっているし、押しつけるつもりもない。「ただ、故郷で暮らす人たちと分断されてしまったようでつらかった」

 19年秋、猛烈な台風19号が東日本一帯に甚大な被害を及ぼし、いわき市の実家も半壊した。すでに帰還していた母真実(まみ)さん(57)たちが心配でたまらず、後を追うように福島に戻り、再び一緒に暮らすようになった。

 現在は大学院の講義をオンラインで受講する毎日。放射能に加え、新型コロナウイルス感染症への恐怖から、外出しなくなった。

 「住み慣れた故郷のはずなのに、知らない土地のように感じる。『福島に帰れて良かった』とか、そんな単純な話じゃない。原発事故は、私から大切な居場所を奪ってしまった」

 避難者にとって、「帰還」は決してゴールではない。それは、娘より一足先に故郷に戻り、日常を取り戻そうとする母親の真実さんにものし掛かる、重い現実だった。