顕證(一音房)日次記 寛永17(1640)年11月9日の条

<ミュージアムのちから コロナ禍に考える>

 888年に創建された仁和寺(京都市右京区)は、15世紀に苦難の時代を迎えた。1468年、応仁の乱で伽藍(がらん)が焼失したのだ。双ケ丘西麓に逃れ、約170年間、その地で法務を執った。ようやく社会が安定した1600年代、覚深法親王(1588~1648年)のもとで再興を始めた。

 学芸員の朝川美幸さんは再興事業を担った僧侶顕證(一音房、1597~1678年)に強い思い入れがある。優れた実務家で、骨身を惜しまず働き、伽藍配置の確定をはじめ、現在の仁和寺の姿を整えた。平安期から受け継がれてきた典籍や寺宝を分類、整理し、後世に受け継がれるよう目録を作った。

 事業は1634年から47年までかかり、顕證の心労は並大抵ではなかった。「工期が遅れている」「注文の絵が間に合わない」「夜も眠れない」。苦悩が日記(日次(ひなみ)記)につづられる。「やはり間に合わなかった」との言葉や、頭痛を和らげる漢方薬を処方された記述もある。だが、ついに再興が成った日の記述はあっさり「今日は厳かに行われた」とだけある。終了後、顕證は静かに引退した。

顕證日次記(表紙) 寛永18年

 1800年代に修理を担った禅證も、顕證の後の200年間に増えた資料の整理など優れた仕事を残している。

 仁和寺は平安から幕末まで、皇室に寄り添い、支えてきた寺院だ。天皇家に病気やお産があると、仁和寺の「御室(おむろ)」が行って修法する。御室とは仁和寺の住持(住職)を指す。幕末までほとんどの住持が皇室出身者だ。格式の高い寺を支えてきたのが顕證ら実務家たちだろう。

紺紙金字薬師経(重要文化財)書き継ぎ部分。15行目までを光格天皇が書写。没後、16行目からを仁和寺29世済仁法親王が書き継いだため、字体が変わっている

 そして今、朝川さんは20年以上かかるとみられる宝物の悉皆(しっかい)調査に取り組む。顕證や禅證に連なる仕事だ。歳月や戦火を超えて残されたものを確実に次代に渡したいとの思いは強い。

 1927年にできた霊宝館は仁和寺を広く知ってもらう役割も担う。始めて訪れる観光客に何を伝えるか。一方、寺の深い歴史に触れたい研究者もいる。両者の興味を満たすため、毎回のテーマや展示に知恵を絞る。

 「仁和寺というと、御室の桜や孔雀(くじゃく)明王像が有名だが、それだけではない。多くのものを持ち、真言の教えを受け継いできた。その姿を展示を通じて伝えたい」。

 

 仁和寺霊宝館 創建以来の本尊阿弥陀三尊像をはじめ多数の絵画、彫刻、文書類を保存、展示する。国宝の「三十帖冊子」は空海が唐で書写した経典の冊子。東寺と高野山の間を行き来した後、仁和寺大聖院に納められ、戦災をくぐり抜けて現代まで生き延びた。光格天皇が薬師経を書写中に死去し、後を仁和寺29世済仁法親王が書き継いだ「書き継ぎ経」(紺紙金字薬師経、重要文化財)も見応えがある。寺の再興を担った顕證の仕事ぶりは、伽藍配置のほか「仁和寺」の文字をあしらった軒丸瓦などにも見ることができる。京都市右京区御室大内。075(461)1155。