村上華岳「太子樹下禅那」(1938年)。21歳だった梶川さんが衝撃を受けた作品。この絵を入手したときに備えてふさわしい場所を作ろうとしたことが開館の契機となった

<ミュージアムのちから コロナ禍に考える>

 何必館・京都現代美術館(京都市東山区)は今年、開館40年を迎える。これまですべての展覧会は館長の梶川芳友さんが作家本人と交渉し、入場券デザインに至るまで決めてきた。

 「美術とは本来、個に始まって個に終わる」。展覧会は梶川さんが見たいと思うものを突き詰めてきた。準備の過程は作家をより深く知る道と重なる。

 写真家荒木経惟(のぶよし)の展覧会は、床から天井まで6千枚の写真で埋め、1500部限定で作った本は全て、表紙に1枚ずつ違う写真を入れた。足で絵を描く手法を用いた現代美術の白髪一雄は、展覧会を開いた当時は首をかしげる人もいたが、現在は世界的に評価される。

1階に飾られたジャコモ・マンズーの「枢機卿」。梶川さんは館の設計を自分で行ったが、この像を置いたことで高窓や四隅の曲線など、全ての空間が決まっていったという

 選択眼に責任を持ち、磨いてきた自負が梶川さんにはある。国際写真家集団「マグナム・フォト」の創始者アンリ・カルティエ=ブレッソンの展覧会では大量の作品の中から展示品を選ぶよう求められた。「冷や汗が出た。こちらの価値観、経験が試されるのだから」

 ある作品を選ぶと「そんなの誰も選ばないよ」とブレッソンに指摘された。それでも後に引かず、選んだ理由を説明した。ブレッソンは何も言わなかったが、認められたと感じた。

 抽象画のパウル・クレーの展覧会でも、遺族に「あなたが選ぶべき」と言われ、1500点の中から100点を選んだ。「あれだけは入れてとか、あれはやめてとか一切言われなかった」。企画者を信じ、任せる。一流の人々の潔さに触れ、自分も磨かれてきたという。

 村上華岳、ロベール・ドアノー、北大路魯山人、良寛など対象は多彩だが、「華岳には『線の行者であらねばならぬ』との言葉があり、クレーも『画家は線の遊び人でなくてはならない』と言う。地下の深いところで水脈がつながっている」と感じ、興味は尽きないという。

5階の「光庭」。庭を通じて茶室が見え、その床の間に「太子樹下禅那」が飾られる

 21歳の時に華岳の作品「太子樹下禅那(たいしじゅかぜんな)」に衝撃を受け、この絵を飾る最上の場を作りたいと願ったのが開館のきっかけだ。この作品は17年かけて手に入れた。自分のすべてを変えるほどの衝撃を生み出した華岳という人物に激しい興味を覚えた。「この作者を知りたい」という強い思いが今後も自身を動かしていくと梶川さんは話す。

 「ミュージアムのちから」は今回でおわります。

 

 何必館・京都現代美術館 1981年開館。館名は常識や定説への疑いを表す言葉「何ぞ、必ずしも」に由来する。村上華岳の「太子樹下禅那」を飾った部屋のそばに北大路魯山人の言葉「高きを行く人においては、衆は必ず之を非(そし)る」が掛かる。梶川さんは「ごう慢と受け取る人があるかもしれないが、現代には魯山人の毒の要素、批判精神が欠けている。口当たりのよいものは批判もされないが、真の創造とはいえない」といい、思想を持った作品を待望する。京都市東山区祇園町北側。075(525)1311。