息子からのメッセージを手にする櫻田さん(1月11日、京都市北区)

息子からのメッセージを手にする櫻田さん(1月11日、京都市北区)

女性部会の仲間で話し合う香田さん(テーブル奥の左から2人目)たち=1月6日、京都市南区・日本自立生活センター

女性部会の仲間で話し合う香田さん(テーブル奥の左から2人目)たち=1月6日、京都市南区・日本自立生活センター

 1月中旬の夕暮れ時、天井の明かりは消えていた。京都市北区の自宅アパートで、全盲の女性、櫻田朋子さん(74)が椅子に腰掛け、二つ折りの小さな紙を広げた。鉛筆で書いた、幼さの残る文字。

 「おかあさん ぼくおうんでくれてありがとう」

 36年前の母の日、小学1年生だった一人息子からもらったメッセージ。短髪に丸顔、目尻を下げて笑う母親の似顔絵が添えられている。「貴重品と一緒に保管しています」。見ることはできないけれど、手にするたびに頬が緩む。

 櫻田さんは左京区大原で育った。父親は「赤紙」が届き、朝鮮半島沖で戦死。母親が行商で家計を支えてくれた。小さな頃から目が不自由で、京都大病院や府立医科大病院で診てもらうと、視神経が萎縮していると言われた。小学4年生の時から、府立盲学校で点字の読み書きや料理、裁縫など日常生活に必要なことを身に付け、高校卒業後ははりとマッサージを学び、職に就いた。

 2歳上の全盲の夫と結婚。31歳の秋、妊娠の兆候に気付いた。産婦人科医は「おめでたです」と告げると、夫を呼んでくるように伝えてきた。夫はマッサージの仕事中だ。「なんで呼ばなあかんのですか」。医師は答えた。「遺伝とかあったらあかん。ご主人に話を聞かせてほしい」

 ■「もちろん、産んでよかった」

 夫からは、戦時中の栄養失調で目が見えなくなったと聞いていたが、障害のない妊婦であれば聞くことのない医師の言葉に驚いた。「今のうちに考えた方がいい」。中絶を勧める医師に「普通にお世話していただいたら、ちゃんと産みます」と遮った。他人にそこまで踏み込んでほしくなかった。

 高校時代、漫才師のミヤコ蝶々と南都雄二が司会を務める人気ラジオ番組「夫婦善哉」を寄宿舎で聞いていた際、ゲストに子育て中の全盲の夫婦が登場し、勇気づけられたことがあった。母親は「うちは不幸だ」とよく口にしたが、櫻田さんは「目が見えないのは不自由だけど、不幸じゃない」と思っていた。

 1977年5月17日、予定日より1カ月早い出産。産声は予想に反して弱々しかった。医師が「男の子ですよ」と、おちんちんを触らせてくれる。「生きている」と安堵(あんど)し、「自分の体から新しい命が誕生した」と感激した。

 3日後、保育器から出た息子を初めて抱かせてもらう。指先に意識を集中し、全身をなでた。たまねぎのような手触りの髪、耳、5本ずつある両手足の指。細かくリズムを刻む息遣いや、産着越しに伝わるぬくもり、おっぱいを吸う力。すべてから生命力があふれているようだった。おむつを替えるタイミングはにおいで分かった。公園では、息子のズボンの後ろに鈴を付け、どこにいるのか音で判断した。

 息子の誕生日を迎えるたびに、あの医師の言葉がなぜか脳裏をよぎる。

 「もちろん、産んでよかった」

 41歳になった息子は、今は大阪でパソコン関係の仕事に就いている。

 ■「障害者は今も一人の人間として認められていない」

 京都を拠点に優生保護法(1948~96年)を問う、障害当事者を中心とした女性団体「障害者権利条約の批准と完全実施を目指す京都実行委員会女性部会」。同法に基づく強制不妊手術に関する初めての国家賠償請求訴訟が昨年1月、仙台地裁で始まる前から活動を続けてきた。日常生活で感じる差別や偏見を話し合う中で、強制不妊手術の被害者の約7割を女性が占めた同法に関心を持ち、2015年ごろから学習会を企画している。

 「そんな法律があったなんて」。医師から中絶を勧められた全盲の櫻田さんは、府立盲学校時代の記憶がよみがえった。視覚と知的の重複障害のある少女に付き添う家族が「この子は自分で下(しも)の始末ができないだろう。大きくなっても心配ないようにしてある」と話していたのを思い出した。同法下では「月経の始末ができない」ことを理由に強制不妊手術が行われた実態があり、「あれは手術のことだったのではないか」と推察する。

 脳性まひで言語障害がある香田晴子さん(56)=山科区=は高校時代、近所の手芸店の女性店主から不意に「生理あるんか。後始末できるんか」と聞かれ、「なんでそんなことを聞くんやろ」と不思議に思った経験がある。同法を知って「私も被害者になっていたかも」と怖くなった。

 強制不妊に対する世の中の関心が低く、もどかしく思ってきたメンバーもいる。大学非常勤講師の松波めぐみさん(51)=南区=は約10年前から、放射線照射による不妊手術を受けさせられた故佐々木千津子さんを追ったドキュメンタリー映画を、授業で取り上げてきた。「大変な人権問題なのに政府は動かず、メディアは報道せず、世間の人は知らなかった」と話す。

 優生保護法がなくなって今年で23年が経っても、障害に対する社会の理解は十分ではなく、当事者は生きづらさを感じているという。

 41歳の時、転落事故で頸髄を損傷して電動車いすを使うようになった村田惠子さん(57)=南区=は、病院の入浴介助で男性看護師が現れたことに驚いた。女性として男性に体を見られたくなかった。「障害をもった途端、女性という性が存在していないかのように扱われる」と悔しかった。

 櫻田さんは「障害者は今も一人の人間として認められていない」と訴える。弁当店で釣り銭の間違いを指摘すると、「目は見えないのに計算はできるんですね」と言い放つ店員がいた。白杖を使って歩いているだけで「偉いですね」とは言ってほしくない。

 櫻田さんは現在、はり・きゅうやマッサージの仕事で生計を立てている。触って鑑賞できる美術展があると聞けば会場に足を運び、作品の表面や輪郭をなぞって形の美しさや手触りを確かめ、作家の意図に思いをはせる。点訳の楽譜を基にピアノも弾く。障害者は何もできないと勝手に決めつけないでほしい。

 「このセーターも私が手編みしたの」。写真撮影に応じながら、ほほ笑んだ。

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 連載<隠れた刃 証言・優生保護法> 国が「不良な子孫」と決めつけ、不妊手術や中絶を強いた法律があった。71年前、優生保護法は民主的手続きを経て成立、23年前に改正され強制不妊の規定がなくなっても、苦しみ、もがき、沈黙するしかない人たちが、今もいる。「優生」の意識は、私たちの心の中に「刃(やいば)」のように潜んでいるのではないか。教訓を未来への道しるべとするために、時代の証言を探した。