多くの避難者を受け入れてきた国家公務員宿舎桃山東合同宿舎

多くの避難者を受け入れてきた国家公務員宿舎桃山東合同宿舎

7年半暮らした部屋で、涙をぬぐう小林さん。「ここで見た景色を、全部残しておきたい」。ベランダや窓から何度もスマートフォンで撮影していた

7年半暮らした部屋で、涙をぬぐう小林さん。「ここで見た景色を、全部残しておきたい」。ベランダや窓から何度もスマートフォンで撮影していた

 東京電力福島第1原発事故による自主避難者が入居した京都市伏見区の国家公務員宿舎桃山東合同宿舎で、退去期限が3月末に迫っている。累計114世帯、350人が住んだ府内最大の受け入れ先は、東日本大震災の発生から8年を経て空となる。転居先の家賃負担や隣人との別れといった不安と、新たな暮らしへの決意をない交ぜにして、転居を迫られた避難者の生活は次の段階へ入っていく。

 2月23日午後。合同宿舎の古びた階段に小林雅子さん(50)の足音が響いた。

 「この棟にも、たくさん子どもがいたんですよ」。残る住人はわずか。小林さんは4階の部屋から、2週間前に宇治市内の府営住宅へ転居を済ませていた。

 原発事故後の11年8月、福島市の自宅に夫を残し、小学5年だった長女茉莉子さん(18)と2人で避難した。単身者用プランで引っ越してきたが、7年半で部屋には荷物が増えた。茉莉子さんは今春、京都の大学へ通い始める。

 この日は、鍵の返却に訪れた。部屋に入れる最後の機会。ベランダの向こうに広がる緑いっぱいの眺めに、宿舎での思い出が浮かんでくる。放射能におびえることなく外で遊び回る子どもたち。洗濯物を外に干せる環境。満開の桜-。

 「ここで受け入れてくれたから、京都で暮らしてこられた。離れるのはさみしい」。がらんどうの室内で、涙があふれた。

 住宅の無償提供期間は1年ごとに延長が繰り返され、いつまで暮らせるのか見通せなかった。期限付きの被災者雇用枠で働き始め、その後は派遣や行政機関の臨時採用など非正規の仕事で生活をつないできた。いつかは帰郷したいとの思いがある上、年齢のこともあり、正社員の道はあきらめた。定まらない住居と職に「ずっと浮草の感覚」とこぼした。

 転居先の府営住宅の家賃は3万円。行政からの家賃補助はない。3月いっぱいで今の職場は契約が終了し、再び就職活動をしなければならない。「不安だけど、新しい生活にこぎ出した。前に進むしかない」。福島へ帰るか、京都に残るか。次の選択は、子どもが大学を卒業する4年後になる。

 小林さんは宿舎を去る際、階下の女性(63)に別れを告げた。「連絡取り合って、同窓会しよう」「がんばってね」。2人が励まし合う。この時、女性はまだ転居先が決まっていなかった。

 女性は11年12月、放射性物質が流れ込んだ栃木県那須塩原市から、母と転居してきた。蓄えを取り崩し、寝たきり状態だった母の介護に専念する毎日。医療費がかさむ中、住宅の無償提供は大きな助けになった。15年7月、母をみとった。「ここで過ごせたことは、母も感謝していると思う」と振り返る。

 19年3月末の退去期限を控え、昨年から数カ所の公営住宅に応募したが、抽選に落ち続けた。子ども・被災者支援法では避難者は公営住宅へ優先的に入居できるが、対象は福島県からの自主避難者に限定されている。女性は脚が悪く、不整脈の持病も抱えて階段の上り下りが難しい。希望にかなう部屋は限られてしまう。

 「とにかく決まってほしい」。女性は、ようやく仮申し込みできた民間物件の審査結果を待っていた。家賃は5万円ほど。無理の利かない体で、どう家計をやり繰りするのか。記者の質問に、女性はつぶやいた。「先の展望っていうより、いかにして人生をうまく終えられるかを考えているんです」

 桃山東合同宿舎には、12年春のピーク時で100世帯近くが暮らしていた。退去までの猶予期間中だった1年前で入居は20世帯。今年2月末には5世帯に減った。

 避難者の転居を支援する下京区のNPO法人「和(なごみ)」の大塚茜理事長(40)は、特例で無償期間の延長を繰り返した災害救助法に基づく住宅支援の弊害を指摘する。「避難者が将来設計しにくい心理になるのは当然だ。生活再建に時間がかかることは過去の災害で明らか。あらかじめ5年なり10年なり長期間を設定し、自活のための基盤を固めてもらう必要があった」

 本年度、同法人の避難者向け相談窓口に寄せられた案件の多くが、住宅確保に関することだった。転居する人は家賃負担が重くなり、経済的困窮が懸念される。新たな地域に溶け込めるかどうか、心配は尽きないという。「定着への支援は欠かせない。国は、今後も避難者が抱える課題や教訓について検証作業を重ねて、政策に結びつけなければならない」と話す。

 同法人の相談支援員、齋藤夕香さん(46)=伏見区=は、転居を迫られた宿舎の住民たちからニーズを聞き取り、不動産屋へ同行したり、引っ越しの支援制度を伝えたりして伴走を続けてきた。自身も福島市の自宅から母子で自主避難し、かつて宿舎に暮らしていた。

 16年12月、近くの団地に転居。もともと、地元へ帰る予定だったが、子どもが京都での中学進学を望み、残ることを選択した。家族とのあつれき、かさむ家賃、子どもの通学先…。さまざまな事情に揺れながらも決断を求められる避難者の心情は、自らの経験と重なる。「苦しみをちゃんと理解して記録に残したい。本人だけの自己責任に押し込めたくない」

 宿舎の集会室には、絵本や児童書が並ぶ本棚がある。地元住民らが、避難してきた人たちのためにと復活させた「ももやま子ども文庫」だ。齋藤さんは本棚を見つめ、地域住民らへの感謝を口にした。ほかにも、お月見会、防災講座など多くの支援を受けた。

 瀬戸圭子さん(72)=同区=は文庫活動を支えてきた一人だ。「故郷を奪われた人たちが、手を結び合える場所をつくりたかった」と振り返る。退去期限を前に住民が減っても、月1回の茶話会に合わせて文庫を開いてきた。「ここから避難者はいなくなるけど、問題は解決していない。拡散して見えにくくなるからこそ、忘れることなく、つながり続けたい」。4月になったら、本棚の整理を始める。

 老朽化が進んだ宿舎からは一般住民が転居し、12年10月から避難者だけが暮らしていた。管理する京都財務事務所によると、全員が退去した後、将来的には全棟が取り壊される見通しという。