滋賀県信楽町(現・甲賀市信楽町)でJRとSKRの列車同士が正面衝突し、死者42人、負傷者614人を出した信楽列車事故は5月14日で発生から30年を迎える。捜査や調査、人命救護に携わった4人に当時を振り返ってもらい、教訓や再発防止への思いを聞く。連載4回目は、消防署員として現場で救助活動を行った藤江隆さん(53)に語ってもらった。

 当時、私は7年目の若手職員でした。事故前日が勤務で当日は非番。午前10時ごろ帰宅し、一眠りしようかと思った矢先に電話で招集がかかりました。「信楽高原鉄道(SKR)で事故。現場に直行せよ」との内容です。列車が踏切で車と衝突したと思いました。同11時ごろ、所属の甲南消防署に立ち寄り、テレビで惨状を見て絶句しました。

 事故は1991年5月14日午前10時35分に発生し、救助に関する活動がすべて終わったのは翌15日午前0時24分。甲賀消防本部所属の出動隊員105人にとって長い一日が始まった。

 私の現場到着は11時40分。消防隊員や医療関係者、負傷者が入り乱れています。線路軌道上では顔や手をけがして服に大量に血がついている人たちが大勢歩いていて、戦争の記録映画のようでした。事故現場でぐったりした方を大勢見てきましたが、あんな光景はその後、見たことがない。今でも目に焼き付いています。

 私はJR車両の1両目の救出活動を指示されました。だがSKRの先頭車両は大破し、どこからJRでどこからSKRか分からない状態です。担当車両はせり上がってねじ曲がっていました。不安定で固定する方法はないが、負傷者は目の前にいます。怖くても進む以外に選択肢はなく、今のような救助資機材や救助の専用車両も少ない時代。はしごやロープを使い救出しました。