沖縄戦での逃避行中に負傷した部分を示しながら「戦争だけは絶対にしてはいけない」と話す松村さん(京都市伏見区)

沖縄戦での逃避行中に負傷した部分を示しながら「戦争だけは絶対にしてはいけない」と話す松村さん(京都市伏見区)

 民間人を含む約20万人が犠牲となった太平洋戦争末期の沖縄戦で、同居の家族5人全員を失った女性が京都市伏見区にいる。父以外は遺骨も遺品も見つかっていない。戦没者の遺骨が眠る本島南部の土砂が米軍新基地建設に使われる可能性が出ており、「悔しい。まずは悲惨な歴史を知り、わが身に置き換えて考えてほしい」と願う。23日は沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる「慰霊の日」。

■13歳の時、米軍が沖縄に 避難を繰り返す

 松村ヨシ子さん(89)は本島南部にある浦添市の自宅で、両親と3歳上の兄、11歳上の姉、姉の娘と暮らしていた。13歳だった1945年3月、米軍が慶良間諸島に上陸を開始。海面を埋め尽くす米艦艇からの砲撃や空襲が昼夜を問わず続き、当初は沖縄独特の大きな墓の中へ避難を繰り返した。

 翌月、「日本軍は無条件降伏したらいいのに」とささやいていた父が、自宅の門前に落ちた爆弾の破片を頭に受けて亡くなった。

■被弾した母は「もうこの場所で死ぬから」と娘を逃がした

 本島に上陸して進撃する米軍から逃れるため、一家は南へ向かった。放置された日本兵や民間人の遺体を繰り返し目撃する中で感覚がまひし、吹き飛ばされた人の手が道沿いの木の枝にぶら下がっている光景を見ても驚かなくなった。

 ある日、身を隠していた糸満市の馬小屋に爆弾が落ち、松村さんの隣にいた母が骨盤や太ももを負傷した。「もうこの場所で死ぬのだから」。母は、松村さんが首から下げていたお守りの中に手持ちの紙幣を入れて「早く避難しなさい」と促した。爆弾が雨のように降り注ぐ中で松村さんは最愛の人の最期を見届ける余裕もなく、その場を離れざるを得なかった。避難に夢中で涙さえ出なかった。

■3歳上の兄も被弾、姉と姪っ子も命を落とす

 その後、兄も被弾して両手足を失った。松村さんが背負おうとしたが、兄は松村さんを気遣い「もうこれ以上は嫌だ」と拒絶した。「友軍はいつ助けにくるのだろう」。それが兄の最後の言葉だった。姉は「お水がほしい」と繰り返すわが子をおんぶし、腐臭の漂う泥池へ向かったまま力尽き、戻ることはなかった。

 自身は倒壊家屋の下敷きにもなったが、かろうじて生き延び、米軍の捕虜となって終戦を迎えた。52年、京都市で生活していた別の姉に誘われて古里を離れた。戦後76年がたつ今も、顔や全身に残る傷痕がうずくときがある。

■米軍基地に沖縄の土を使う計画「悔しい。石ころ一つにも血が染みついている」

 松村さんは今春、名護市辺野古の米軍新基地建設で、防衛省が海の埋め立てに使う土砂の多くを本島南部から採取する計画を立てていることをニュースで知った。「沖縄戦での出来事がこのまま忘れ去られてしまうのか」と悔しくなった。「沖縄では地中に遺骨が眠り、石ころ一つにも血が染みついている。家族の最後の姿を伝え続けることが、生き残った私の使命です」と話す。

≪沖縄戦≫

 地上戦は1945年3月26日、米軍が慶良間諸島に上陸して始まり、約3カ月間続いた。沖縄県によると軍人軍属9万4136人(京都出身者2536人・滋賀出身者1671人)、一般の沖縄県民9万4千人、米兵1万2520人が命を落とした。