原文は奥田勲校注・訳『新編日本古典文学全集88』(小学館)より転載。原文表記の一部を修正している。
 

 ところが、今から七年ほど前<寛正二(一四六一)年>、長々と日照りが続き、見渡す限り、田畑から草木一本生えない大飢饉(ききん)となった。都も田舎も、身分の上下を問わず、人々はみな疲れ、家や土地を離れてあてどなくさまよい、道ばたで物乞いをし、地面にごろりと体を投げ出して死んでいく、その人数は、一日で十万人はくだらない、ともいう。もはやこの世は、六道の餓鬼道となっている。

 昔、鴨長明の『方丈記』という本に、「安元年間に旱魃(かんばつ)があって、都の中で二万人以上の死人が出ました。大風に火事までも発生し、樋口高倉あたりを火元に、中御門京極まで飛び火して延焼し、都は焼け失せました」などと記し留められていたのを、浅はかにも、嘘(うそ)だろう?事実ではあるまい、とも思っていたが、またたく間にこのような世の惨状を観(み)ることになったのは、世界が壊滅する世の末に起こるという水・火・風の大三災が、まさにいま、とうとうここに具現してしまったのだ。

 乱れ衰えた世が積み重なった結果だろうか、(畠山義就が上洛した)文正元(一四六六)年の暮れから、細川京兆家(代々右京大夫を世襲)の勝元と、金吾(前右衛門督)山名宗全(持豊)との争論は、すでに決定的に破綻して、天下は(勝元らの東軍と、宗全らの西軍と)真っ二つに分かれてしまった。

『保元・平治合戦図屏風』(仁和寺蔵)左隻。六曲一双の右隻は保元の乱、左隻は平治の乱を描く。画面中央下の内裏を逃れ、後白河院は殿上人の体で馬に乗り、仁和寺へ。二条天皇は女房姿に身をやつし、車で平清盛のいる六波羅へ向かう。左は六波羅合戦。六波羅蜜寺はすぐ側で、心敬の十住心院もほど近い

三災と騒擾壊滅する世界

 

 「毛」に「クサ」という古訓がある(『類聚名義抄(るいじゆみようぎしよう)』)。「毛(ケ)は草木を云」(本居宣長)い、「木は大地の毛であった」(西郷信綱『日本の古代語を探る』)。ところが日照り続きで「田畑の毛一筋もなし」。実もならず、食うものがない…。この世はまさに餓鬼道だ。

 紀伊国に生まれた心敬(しんけい)(一四〇六~七五年)は、三歳で京に出て、比叡山の横川(よかわ)で修行。「音羽山麓十住心院 心敬」と署名する(苔莚本『ささめごと』奥書)ように、縁あって十住心院という寺の住持となった。僧位は権大僧都にのぼる。歌人としては冷泉派で、東福寺出身の禅僧正徹(しようてつ)に師事した。正徹も心敬も『徒然草』の愛読者だ。連歌作者としての活動も著しく、弟子に宗祇がいる。応仁元(一四六七)年四月末、念願の伊勢参宮を果たし、富士・鎌倉を一見する船便を得て、そのまま東下りをする。折しも都は応仁の大乱で、品川を拠点とする長い仮寓が始まった。ついに京には戻らず、その死も、相模国大山(おおやま)山麓石蔵(いしくら)の地(現神奈川県伊勢原市の浄業寺(じょうごうじ)跡という)で迎えることとなる。

 『ひとりごと』は、随筆風に綴られた連歌論の書で、応仁二年、東国での執筆だ。「この世のことはみなまぼろしの内ながら」と前置きして「かばかりつたなき時世の末に生まれ合ひぬる」運命を嘆きつつ、「五十年あまりのことは明らかに見聞き侍り。それよりこのかたは、天が下、片時(かたとき)も治まれること侍らず」と、自ら経験した騒擾(そうじよう)を語り出す。

 三十過ぎの年「東(あずま)の乱れ」永享(えいきよう)の乱(一四三八年)が起き、「幾(いく)千万の人、剣に身を破」る。そして「赤松の亭(てい)にての御事」将軍暗殺の嘉吉(かきつ)の乱(一四四一年)が出来(しゆつたい)。「年々歳々、天下」は戦闘に明け暮れ「長閑(のどやか)なる所なし」。「あまさへ(=加えて)」「徳政」を求め、土一揆(つちいつき)が京に乱入。「ひとへに白波(=盗賊跋扈(ぞくばつこ))の世とな」った。疲弊する都を旱魃が襲う。

 幸若舞(こうわかまい)『敦盛(あつもり)』に「人間(にんげん)五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり」とある。桶狭間の戦い(一五六〇年)の前夜、信長が清洲城で舞ったという一節だ。同じ幸若舞の『満仲(まんじゆう)』も「みな夢幻の世の中なり。この娑婆(しやば)の定命(ぢやうみやう)を思へば、僅(わづ)かに六十年。下天の暁(げう)、老少不定(ふぢやう)の夢なり」と語る。原典は世親(せしん)『倶舎論(くしやろん)』の「人間五十年、下天一昼夜」だが、世親は「人間の寿命が五十年しかない、と論じているのではない」。「下天」は「須弥山(しゆみせん)中腹の四方にある四王天で、ここの一昼夜は人間の五十年に相当すると述べているのである」(『仏教語源散策』「人間」)。

 五十年前の心敬は、物心つく元服の年ごろだ。『方丈記』も「予(われ)、ものの心を知れりしより、四十(よそぢ)あまりの春秋を送れるあひだに、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ」と回顧し、「去(いにし)安元三年四月二十八日」(一一七七年)の「風はげしく吹く」夜の大火から、長明見聞の五大災厄を語り始める。心敬は今の現世と重ね、大三災の破滅到来を実感した。

 ただし「日照り」は『方丈記』養和の飢饉(一一八一~二年)の「或(あるい)は春・夏ひでり、或は秋大風・洪水」を承ける。「つたなき時世の末に生まれ合ひ」も、養和の惨状を「濁悪世(ぢよくあくせ)にしも生(む)まれあひて」と嘆く長明の本歌取りだ。死者「二万余人」も養和二年との混同か。『方丈記』では「剰(あま)りさへ疫癘(えきれい)うちそひ」盗みも横行。「四五両月」で、道のほとりに「四万二千三百余り」の餓死者が転がる。仁和寺の隆暁法印が額に阿字の結縁(けちえん)で勘定した「人数(ひとかず)」だ。

 寛正二年も三年越しの飢饉に加え「疾疫悉(しつえきことごと)クハヤリ」(『新撰長禄寛正記』)、一月二月で京中は「死者八万二千人也」(『碧山日録』)。ある僧が八万四千の木片の卒塔婆を造って屍骸(しがい)に置き、二千余って把握した数という(同上)。『方丈記』とそっくりだ。このあと心敬は応仁の乱の勃発を描き、「都のうち、目の前に修羅(しゆら)地獄となれり」と呻(うめ)いた。

 清水寺辺、清水坂の南、などと記録される十住心院は、十四世紀以降、六波羅蜜寺の領掌下にあったようだ。室町幕府の祈願寺ともなるが、義就・政長の家督争いが応仁の乱の引き金となる畠山氏と縁を深め、畠山寺とも呼ばれた。心敬が京を離れた後に焼亡し、廃絶したらしい。四条新京極の染殿院は、ゆかりの寺で、近世には十住心院とも称した。

 

六原(波羅)かいわい(京都市東山区)

松原通の六道の辻と伝わる交差路。「六道之辻」の石碑が立ち、南に進むと六波羅蜜寺、東へ辿ると六道珍皇寺を経て清水寺へ(京都市東山区)
六原(波羅)かいわい地図

 大和大路通から松原通を東へ進むと、右手に「六道之辻」と刻んだ石碑が見える。六道の辻の交差点で、その南側の道沿いに、心敬の十住心院を領掌した六波羅蜜寺がある。

 空也上人が951年に開創したこの寺は、口から6体の阿弥陀仏が出ている上人像や平清盛像で有名。平家が権勢を誇った時代、寺の周辺は、平氏一門の邸宅が立ち並び殷賑を極め、鎌倉時代になると探題が置かれ、六波羅は政治的にも重要な役割を担った。

 一方で六道の辻は、昔、京の東の葬送の地「鳥辺(部)野」への入り口として知られる。交差点の北側に「幽霊子育飴(こそだてあめ)」を売る店、そこから東へ行くと「小野篁冥土(めいど)通いの井戸」の言い伝えが残る六道珍皇寺がある。伝統のお盆行事も夏の風物詩で、今もこの界隈には、あの世とこの世をつなぐ場所として、時空を超えた深い信仰の世界が息づいている。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)