被爆死した父の四郎さんが生前に疎開させていたアルバムやたばこ入れを前に、当時を振り返る穂谷さん(京都市中京区)

被爆死した父の四郎さんが生前に疎開させていたアルバムやたばこ入れを前に、当時を振り返る穂谷さん(京都市中京区)

穂谷四郎さん=穂谷さん提供

穂谷四郎さん=穂谷さん提供

着物姿で妹と写真に収まる穂谷さん(左)と妹=穂谷さん提供

着物姿で妹と写真に収まる穂谷さん(左)と妹=穂谷さん提供

 広島市への原爆投下で犠牲となった父の遺品のアルバムを大切に保管している女性が、京都市にいる。父は通信社の記者で、アルバムには戦時下ながら家族の穏やかな日常を切り取った写真が並ぶ。自身も被爆した女性は76年目の「原爆の日」を前に、歳月が重なっても忘れ得ない体験を京都新聞社の取材に語った。

 京都市右京区の穂谷珠美子さん(83)。7歳だった1945年8月6日午前8時すぎ、家族6人で暮らしていた広島市の空襲警報が解除されたことから、父の四郎さん、3歳上の兄と自宅を出た。同盟通信(共同通信、時事通信の前身)に勤務していた四郎さんは、広島支社が入居する中国新聞社へ。自身と兄は国民学校の分散教室があった寺へ。道で別れる際、四郎さんは「気つけて行きんさいよ」と手を振った。

 穂谷さんが寺の本堂に上がろうとした時、ピカッと光り、ドンという爆音が聞こえた。同時に右頰が裂け、流れ出た血でワンピースが赤く染まった。爆心地からの距離は1・5キロ。兄と手を取り合い、自宅へ急いだ。地面には遺体が折り重なり、やけどをした女性たちが「助けて」「お水をください」と哀願していたが、周囲を気遣う余裕はなかった。

 帰宅後、四郎さんの安否を求めて、母や兄と一緒に職場を目指した。四郎さんは途中の軒先でしゃがんでいた。「お父ちゃん」と呼び掛けたが、既に息絶えていた。48歳だった。背広のポケットは空っぽで、財布もたばこも盗まれていた。

 近所の人に事情を伝えようとその場を離れたわずかな間に、父は他の遺体とともにどこかへ運ばれてしまい、遺骨さえ手元に残らなかった。

 間もなくして母子5人は滋賀県志賀町(現在の大津市)北小松にあった母の実家へ転居し、四郎さんが疎開させていたアルバムを見つけた。

 幼い穂谷さんが2人の兄に挟まれワンピース姿で正面を見つめる様子や、病気からの回復祝いに妹と着物を着せてもらった姿が写っていた。四郎さんも、背広姿で地面に横たわりポーズを決めている。子どもを中心に、戦争を感じさせないモノクロ写真が貼られていた。

 穂谷さんは戦後、差別や偏見に苦しんだ。小学校の同級生の親からは「近寄ると原爆がうつる」と言われた。20代で結婚を考えた相手は「お母さんから『被爆はあかん』と言われた」と去って行った。そんな時、穂谷さんはアルバムを広げ、大好きだった父の面影を探して心の支えとした。

 穂谷さんはこれまでに国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市)などの依頼に応じ、被爆体験を証言。76年前に刻まれた右頰の傷痕も隠さず見せてきた。「体験していない人に核廃絶と言っても分からないとは思うけど、何かを感じてもらえたら」と話す。