「満州で生きていくと思っていた」と語る奥村さん(南丹市日吉町)

「満州で生きていくと思っていた」と語る奥村さん(南丹市日吉町)

父に贈られた餞別を記録した帳面を手にする原田さん(南丹市園部町・あかまつの丘西本梅)

父に贈られた餞別を記録した帳面を手にする原田さん(南丹市園部町・あかまつの丘西本梅)

 「土の戦士」と呼ばれた満蒙開拓青少年義勇軍。終戦の1945年までに、15歳前後の農村の次男ら約8万6千人が開拓民として満州(現在の中国東北部)に送り込まれ、中には京都府・丹波地域の少年たちもいた。過酷な環境で農作業に従事し、ソ連による満州侵攻後は命からがらの逃避行を続けた。学校教員が精力的に勧誘し、少年を義勇軍へと導いたといわれており、現代に多くの教訓を残す。

■素手で鉄を触ると凍り付く満州の寒さ「ここで生きていく」

 南丹市日吉町の奥村榮吉さん(92)は8人きょうだいの5番目。農業や山仕事でなんとか生計を立てる中、14歳の時に義勇軍の募集を知り、手を上げた。義理の家族と折り合いが良くなく、家を出たい一心だったという。日の丸に送られながら、茨城県の内原訓練所へ。ろくに農業の訓練もなく、模造の銃を構えて行進するのが主な日課だった。「くわを持ったことがない人もいた」と明かす。

 43年5月ごろ、船で朝鮮半島を経て汽車で数時間かけて満州の勃利(ぼつり)に着いた。「見渡す限り丘だった」と思い起こす。

 早朝に起床。集団生活を送りながら、雑草だらけの土地を馬と人力で開墾した。作物はよく育ったが、自然は厳しかった。冬は氷点下40度に下がり、素手で鉄を触ると張り付く。凍傷で手足を失う人もいた。「寒さは忘れられない」。それでも帰国しようとは思わなかった。「土地は豊かで農業はできる。満州で生きていくと思っていた」

■「いつ死んでもおかしくなかった」死地へ誘った国の甘言

 しかし、45年8月にソ連が満州に攻め込み、状況は一変する。100発の弾を渡されて逃げた。機関銃から放たれる弾が何度も近くをかすめた。「遠くは『ぴゅーん』。近くは『ぴゅん』。音が違う」。多くの仲間が倒れた。数カ月の逃避行を経てたどり着いた新京(現在の長春)で1年ほど暮らし、46年秋に帰国した。「いつ死んでもおかしくなかった。二度と戦争はあってはならない」と話す。

 死地と化す満州へ少年たちをいざなったのは何だったのか。義勇軍に触れた「ボクらの村にも戦争があった」の著者で元高校教員田中仁さん(70)=南丹市園部町=によると、満州に渡れば10ヘクタールがもらえると言われた。「日本でいえば大地主だ。甘言で国が誘った」と指摘する。

 奥村さんは自身の意思で決めたが、多くの少年にとって教員の勧誘も大きな影響を与えた。内原訓練所の入所者に対する身上調査で、6割が入所の動機に「教師の指導」を挙げた。

■満州へ送り込んだ教員の指導とは

 南丹市の元高校教員原田久さん(69)の父幸一さん(故人)も、教員の薦めで同訓練所に入った。各学校にはノルマがあったとされる。ひ弱だった幸一さんは、だぶだぶの国民服を着て送り出された。ただ体力面が不安視されたためか、最終的に幸一さんは満州には行けなかった。村人から餞別(せんべつ)を贈られた手前、後ろめたい気持ちがあったのだろう。記憶を語ることはほとんどなかった。

 高校で平和教育に力を入れた原田さんは「体の小さい父を送り出した教員の非情さを感じる」と語気を強める。

 別の視点もある。原田さんは「義勇軍の少年たちは戦争の被害者と言えるが、中国側からすれば、土地を奪いに来た者という側面もある」とし、多面的に歴史を見る大切さを訴える。