たけなか・あきひろ 1973年生まれ。在ウズベキスタン日本大使館専門調査員、NHK記者、衆議院議員秘書、週刊文春記者などを経てフリー。著書に「殺しの柳川」「沖縄を守る人々」など。

 京都出身の韓国人に朴鍾圭(パクジョンギュ)という人物がいる。1930年に生まれ、終戦にともない家族とともに朝鮮半島に引き揚げた。その後は韓国陸軍に入り、61年の軍事クーデーターで政権を奪取した朴正煕大統領の側近となる。大統領の身辺を警護する大統領警護室長として権勢を振るい、政権ナンバー2と目されるほどの実力者でもあった。

 射撃の名手として知られ、カッとなるとすぐに拳銃を抜くことからつけられたあだなは「ピストル朴」。大統領警護室用に、日本からの大量の備品を税関を通さず韓国に持ち込み、抗議に来た関税庁長官に殴る蹴るの暴行を加えた、と韓国中央情報部部長だった金ヒョン旭の手記にある。

 一方、15歳まで京都にいたため日本語に堪能で、たびたび訪日した。72年に朴大統領の訪日が検討された時には、日本の警察当局と警備計画を協議。過剰なまでの警備体制を求めて日本側を難儀させた。

 74年、大阪生まれの在日韓国人・文世光に朴大統領夫人の陸英修が射殺されると、朴鍾圭は責任を取って大統領警護室長を辞任した。

 その後はスポーツ界に転身し、大韓射撃連盟会長、韓国オリンピック委員会委員長、国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めた。

 スポーツ界での朴鍾圭の最大の功績は、88年夏季五輪のソウル誘致に成功したことだ。当初、本命と見られていたのは名古屋。これを猛烈なロビー活動でひっくり返し、韓国の経済成長を世界にアピールする絶好の機会をつかみ取った。

 京都生まれだけに、日本や在日韓国人との関わりも深い。65年の日韓国交正常化に向けた事前工作では、在日韓国人フィクサーの町井久之の後ろ盾となって政財界の黒幕と言われた児玉誉士夫、さらに自民党副総裁だった大野伴睦らの訪韓に深く関わった。大野は自民党きっての韓国嫌いとして知られ、国交正常化の実現にあたって障壁と見られていただけに、訪韓の成功は大きな意味を持つ。

 大統領警護室長の辞任後も、日本の政財界やスポーツ界に張り巡らせた人脈を駆使して日韓の橋渡し役として活躍していたが、ソウル五輪の開催を前にした85年に55歳の若さで肝臓がんで亡くなった。

 翻って現在のことである。日韓関係の改善に向けた模索がようやく始まった。こうもこじれる理由のひとつに、かつてのように日韓の間で水面下の調整をできる人材がいなくなったからだという話をよく聞く。朴鍾圭のような両国を熟知する実力者がいまも生きていればどうだったのだろうか。そんな夢想を私は思わずしてしまうのだ。(ジャーナリスト)

 ※「ヒョン」は火へんに同