宗田一さん(日文研蔵)

 国際日本文化研究センター(日文研)が共同研究の成果を市民に伝える「第3回日文研―京都アカデミック ブリッジ」(主催・日文研、京都新聞 協力・文化庁地域文化創生本部)が10月26日、京都市中京区の京都文化博物館であった。テーマは「京で語る医と文化 宗田一(そうだ・はじめ)生誕100年」。宗田さんが収集した日文研の所蔵資料などを基に医学、薬学の歴史を紹介した。

登壇者
松田 清さん          京都大名誉教授
伊藤 謙さん          大阪大総合学術博物館講師
フレデリック・クレインスさん  国際日本文化研究センター教授
光平 有希さん         国際日本文化研究センター特任助教

司会 国際日本文化研究センター 安井眞奈美教授
やすい・まなみ 1967年生まれ。日本民俗学、文化人類学。著書に『怪異と身体の民俗学―異界から出産と子育てを問い直す』(せりか書房)他。

基調講演

「宗田先生と京の蘭学」
京都大名誉教授 松田清さん

まつだ・きよし 1947年生まれ。洋学史。著書に本草学などを紹介した『京の学塾 山本読書室の世界』(京都新聞出版センター)他。

 私は1998(平成10)年11月から翌年3月まで、「宗田文庫」を調査し「宗田コレクション主要仮目録」作成に至りました。内容整理は今後も続くことでしょう。

 宗田一先生は1921(大正10)年に生まれ、武田化成(現・田辺三菱製薬)に入社し、1942(昭和17)年、徴兵されて旭川通信部隊暗号係として千島列島(クリル諸島)の松輪島(まつわとう)に滞在。戦後は同社に復帰し、昭和天皇の全国巡幸による47年の武田薬品工業大阪工場訪問の際、案内役を務めています。同社は戦前、軍にマラリアの薬・キニーネを供給しています。青春期に、戦争と平和の双方の時代を過ごしました。私が87年に先生と出会ったのは、武田科学振興財団が運営する大阪十三の「杏雨書屋」でした。武田薬品工業5代目武田長兵衛および6代目が収集した東洋医薬書の世界的コレクションがあります。

宗田一さんが作成して用いていた蔵書票

 著作を何点か紹介しましょう。まずは『日本製薬技術史の研究』。南蛮医学から江戸期の薬末製造器まで網羅した素晴らしい内容です。先生の「蔵書票」は紅毛医学書の蒸留器図を摸したもので、思いが伝わります。

 『健康と病の民俗誌-医と心のルーツ』―医術に対する姿勢には個人的に共感を覚えます。

 『日本の名薬』―オランダ商館長による日本人の霊魂観への洞察や、華岡青洲がつくった麻酔薬「通仙散」の数々が記述され、乳がん摘出手術の『乳岩図譜』は秀逸です。

 『渡来薬の文化誌-オランダ船が運んだ洋薬』―唐船、蘭船両方の渡来薬を扱い、サフランは蘭方医学にゆかりのある薬草で、効能書には「皇帝薬」とのオランダ文字も印刷されています。

 『図説日本医療文化史』―古代から近代までの医療文化をオールカラーでつづった大著で、現在でも専門家の参考になるほどです。明治維新後、西洋医学が偏重され、漢方医学が排撃されたことで漢方医が窮地に陥る事態が起きましたが、民間では既に漢方が定着していたことが伝わってきます。浮世絵師・月岡芳年による表紙絵も目を引きます。宗田先生は絵の才能も持ち合わせており、近代医学教育のルーツ、長崎養生所を描いた石版多色刷り口絵を摸写しています。

 漢方の歴史を見ると、中国の哲学的医学を日本人向けに簡略化して普及させたのが曲直瀬道三(1507~94年)で、吉益東洞は伝統的陰陽五行論を真っ向から否定しながらも医療組織化に力を発揮、山脇東洋(1705~62年)は日本で初めて公に解剖実験を行い、小石元俊は漢蘭折衷医術を唱えました。

「文化五年海上随鴎解剖図」(国立科学博物館蔵)

 京都における蘭学医療で言及すべきは海上随鴎(1759~1811年)でしょう。門下生の小森桃塢(1782~1843年)と藤林普山(1781~1836年)と共に1808(文化5)年、大掛かりな解剖実験を実施しました。私は宗田先生旧蔵の『文化五年海上随鴎解剖図集』が仏パリの古書店にあることを突き止め、国立科学博物館への里帰り所蔵が実現しました。

 先生は著書に「医と心のルーツ」とサブタイトルを付しています。医療には社会科学的・心理的側面と自然科学的側面がありますが、先生は医療にかんする伝統文化に健康への積極的関与・意欲を維持発展させる力を認め、これを迷信として排除せず、まじないや祈祷も含め、幅広い視点から医療文化史を研究されました。先生にならい、京都の蘭学も伝統文化のなかで捉え直すべきと私は考えております。

「宗田モノ資料 点描」
国際日本文化研究センター 特任助教 光平有希さん

みつひら・ゆうき 1982年生まれ。医療文化史、音楽療法史。著書に『「いやし」としての音楽-江戸期・明治期の日本音楽療法思想史』他。

 宗田文庫のなかには未整理の資料群もあり、今回はその中から「モノ資料」に焦点をあてて幾つかご紹介します。最初は「従軍手帖」。生前、絵描きになりたかったともおっしゃっていた宗田先生は、兵役赴任地の松輪島と思われる情景や人物、生活風景を鉛筆で描きとめました。後の水彩画化を考えたのか、色指定まで記入されています。簡潔なスケッチにも土地の生活文化に対する鋭い観察眼がうかがえ、これは正に宗田先生が提唱し推し進められた学問領域「医療文化史」の研究姿勢にも通じるものと思われます。「医療文化史」とは、太古の昔から人類の生活史の中で不可欠な医療の歩みのことです。宗田先生は古代から近代までの医学や医療の発達と展開過程を広く生活文化史の中で捉えた医学史研究の第一人者ともいえます。

 宗田文庫の「モノ資料」には信仰に関するものも多く、疫病や病魔退散、祓(はら)いの儀に関連する護符や人形、お面などもあります。また、旅行用の急用薬、富山薬包みなど数々の薬にまつわる資料、さらには江戸末期から明治初期に使用したと考えられる外科手術道具までそろっています。

 宗田先生のコレクションは、実際に現地を訪ね、土地の文化に直接触れ合いながら網羅的に収集されたもので、その実直な研究姿勢が未整理資料からもひしひしと伝わり、先生のお人柄がしのばれる思いです。

「京都漢方医学の曙」
国際日本文化研究センター 教授 フレデリック・クレインスさん

フレデリック・クレインス 1970年ベルギー生まれ。日欧交渉史。2020年4月から現職。著書に『ウィリアム・アダムス』(ちくま新書)他。

 私の師、松田先生から与えられた初課題は宗田先生の『図説日本医療文化史』と『京都の医学史』の熟読でした。それらの本を読んだ時に、解剖図『平次郎臓図』(1783年(天明3)成)についての説明に強い印象をもちました。この解剖図は京都・桂生まれの小石元俊が作成したものです。

 日本で初めて公許を得て解剖を行った、禁裏医師・山脇東洋の『蔵志』が1754年(宝暦4)に出ました。中国医学の五臓六腑説を検証するために著された解剖書でした。また、蘭学者・杉田玄白による『解体新書』が1774年に完成します。同書は、玄白が江戸の骨が原刑場にて解剖に立ち会った際、ドイツ医師クルムス著の『ターヘル・アナトミア』の正確さを認識し邦訳したものです。人間の身体を神が造った完璧な形として認識する宗教的見地から西洋では人体の解剖図を理想化していました。それに倣って『解体新書』でも人体内臓図を理想化した形で示しています。

 これらに比べ、『平次郎臓図』は、中国医学の五臓六腑説の影響もなく、西洋解剖図の影響もなく、客観的な解剖記録としての価値が高い。元俊の崇高な科学的精神の下、画家・吉村蘭洲の写実的な描写力が遺憾なく発揮されています。なお、元俊が江戸へ出向き、玄白らから蘭方医学について学んだ後の1798年(寛政10)に再度解剖を行い、再び蘭洲の協力を得て『施薬院解男体臓図』という解剖図を作成しました。これには西洋医学の知識も盛り込みながら、人体を西洋の解剖図よりも正確に描いています。

 宗田先生がご著書で取り上げられている逸話の一つに、元俊が山脇東洋の息子・東門の門下生と激論するほど蘭方医学を京都で普及させた話があります。そういうわけで京都での蘭方医学の祖として知られています。ただ、元俊が開塾した究理堂における彼自身の説く講義内容はむしろ漢方医学も多く、松田先生が指摘されたように、元俊も蘭学だけで全ての病には対処できないと悟っていたと考えられます。

大阪大総合学術博物館 講師 伊藤謙さん

いとう・けん 1978年生まれ。本草博物学、生薬学。京都薬科大などを経て現職。編著に『鉱物-石への探求がもたらす文明と文化の発展』。

 私は自身の研究分野は本草学と答えるようにしています。本草学は領域が広く、歴史的なイメージでいうと平賀源内でしょうか。彼は医師、浄瑠璃、エレキテル発明など多才ぶりを発揮しました。宗田先生も、まじないや浮世絵など関心が幅広い点に共通点があるように感じます。

 私は当初、薬学が専門で、京都大学で緑内障やアルツハイマー病を研究していましたが、小学生から鉱物や化石収集に励むほど古い物が好きで、緒方洪庵の薬箱の研究や、大阪大学構内で発掘されたマチカネワニ化石の天然記念物登録などにも関わりました。今後は、現代の「本草学者」として、先人が切り開いた研究分野を現代に活かしていきたいと考えています。私は伊藤若冲の遠縁に当たりますが、若冲は「千載具眼の徒を竢つ」という言葉を残しています。遅くとも千年後には、私の絵を理解してくれる人物が必ず現れるだろうという意味です。彼も当初から正当に評価されたわけではありません。宗田先生も若冲と同様、いつかは認められるとの思いで活動に没頭したのではないでしょうか。

 日本漢方の流派は時代順に、後世方派・古方派・折衷派の三つに分けられます。日本に特徴的なのは現在主流といえる折衷派で、代表的人物は、浅田飴を考案し、大正天皇や天璋院篤姫の侍医を務めた漢方医師、浅田宗伯です。その曾孫弟子が京都の漢方医師である細野史郎で、進駐軍のインスタントコーヒーにヒントを得て、漢方エキス製剤を世界初で開発しました。現在の私たちが簡便に漢方薬を服用できるようになったのは、細野の功績が大きいと言えましょう。また後年、漢方専門医の認定機関となった日本東洋医学会を、細野は昭和25年に設立しています。このように、実は京都は漢方医学が盛んな土地で、安土桃山時代には医聖・曲直瀬道三、江戸時代には古方派を代表する吉益東洞、そして近代には現代漢方医学の祖ともいえる細野史郎をはじめとする、多くの著名な漢方医師を輩出してきました。

質疑応答

 

安井 未整理資料の公開が期待されますね。

光平 ノート、書簡、ファイルなど多岐にわたり、1年半後の公開が目標です。

松田 宗田文庫を日文研に所蔵したのは、国立民族学博物館に寄贈された中国食物史コレクション「篠田統(おさむ)文庫に匹敵すると判断したからでもあります。

安井 会場からの質問です。「京都で医学が発展した理由」「京都の製薬業と、大阪・道修町との違い」についてお尋ねです。

クレインス 禁裏に出入りするトップクラスの医者=典医が最先端医学をリードしていました。京都で解剖実験が実現したのは、そうした基盤もあってこそでしょう。

安井 京都大学総合博物館での企画展「医者になる!-京都大学の医学教育」(2021年10月10日終了)では、京都の近代医学教育が現代に至るまで引き継がれていることが詳しく紹介されていました。また、松田先生が紹介された華岡青洲の麻酔薬「通仙散」について、宗田一氏は「京都と華岡青洲」というエッセイで、青洲の独創性はマンダラゲ(チョウセンアサガオ)を主とした6種の新たな組み合わせと独特の処方にあるが、これは突然出現したものではなく、京都の先駆者の研究に負うところが大きかった、と記しています。

 次の質問は「サフランは主にスパイスとして使いますが、薬効は」です。

伊藤 サフランはスパイスにも使いますが、薬としては、婦人特有の「血の道症」に、例えば血行不良の緩和などに使います。基本的にスパイスと呼ばれるものは薬と思ってもらっていいですね。

松田 京都で最初に裁判官生活を始めた香川大学初代学長神原甚造は、一方で蘭学資料を大量に収集、サフラン関連も含まれていました。それが宗田先生の目に入ったのでしょう。神原先生と宗田先生は赤い糸で結ばれていたということです。

安井 次は「サフランの赤い色が婦人病に良いイメージがあるがどうなのでしょう」。

 確かにそうですね。江戸時代の疱瘡除けの護符やお見舞いの品などにも、赤色が好んで用いられました。体表に出る痘疹の色が赤くなると無事、回復することに因んでいると言われています。魔よけや病を追い払うのにも赤が好まれていたので、薬のパッケージなどにも使われているのでしょう。

クレインス 赤色は邪気を払う意味があるので、かつて梅毒が流行した際、遊女たちは罹患(りかん)しないよう赤いじゅばんを身に着けていました。

安井 最後の質問です。「曲直瀬道三は、京都医学会の流れからは遠いのでしょうか」。

松田 曲直瀬道三直筆の書を見ると、非常に分かりやすく日本化して教科書を書いています。ご質問への答えにはなっていませんが、日本で最初に医学教育に携わった先駆者と私は理解しています。