1950年代に原子炉設置が計画されていた場所(左側)を示す玉井さん。道路を挟み、宇治川が流れている=京都市伏見区

1950年代に原子炉設置が計画されていた場所(左側)を示す玉井さん。道路を挟み、宇治川が流れている=京都市伏見区

元原子炉予定地

元原子炉予定地

 60年余り前、宇治市で原子炉の建設計画が持ち上がり、住民らによる反対運動が巻き起こった―。当時を知る関係者が少なくなる中、忘れられようとしている戦後史の一断面に光を当てようと、地元住民らが運動史を研究している。19日には一般向けの学習会とフィールドワークを初めて開く予定で、「世界初とされる運動の歴史や関わった人たちの思いを知って」と呼び掛けている。

■原子炉計画「お茶が売れなくなる」

 1957年1月、京都大や大阪大の学者らでつくる関西研究用原子炉設置準備委員会(湯川秀樹委員長)の会合。ここで、宇治市木幡と京都市伏見区にまたがる陸軍宇治火薬製造所跡地(約6万坪)を研究用原子炉建設の候補地に決めた。

 核の平和利用をうたい、国や科学者が原子力推進にかじを切った時代。広島、長崎への原爆投下の12年後だった。宇治では、「お茶が売れなくなる」として茶業者を中心に反対運動が展開され、市全域に広がった。一部学者からも疑問の声が上がり、同年8月に準備委は計画撤回を承認した。

 その後、大阪府高槻市などの候補地を経て60年、誘致した大阪府熊取町に決まり、63年に京大原子炉実験所として開設。原発が地方の沿岸部にできていく原型にもなった。

 「『ほんまかいな』という思い。木幡に住んで30年たつけど全く知らなかった」。元会社員の玉井和次さん(70)は2011年の東京電力福島第1原発事故後、近所の人から宇治での計画の歴史を教わり、衝撃を受けた。長男家族が仙台で暮らし、地震や原発事故が人ごとでなかったことも研究を始める後押しとなった。

 当時の新聞記事を読みあさり、準備委の資料や国会議事録、宇治市議会で採択された請願書などを渉猟。運動に携わった人や家族からも話を聞いた。「学者が『絶対安全』と言うなど、その後の『安全神話』へのつながりを感じる。日本学術会議が設置計画推進を巡り掲げた『民主・自主・公開』の3原則も住民に対しては貫かれていなかった」

■反対の中心人物が急死、記録も少なく

 かつての自分同様、地元でもこの計画の存在を知らない人が多いと感じる。「計画撤回で茶業者が本業に戻り、反対の中心的役割を担った宇治市議が急死するなど、当事者による記録の少なさが影響している」とみる。

 孤軍奮闘の研究に追い風が吹く。昨年10月、玉井さんの活動を知った立命館宇治中・高の本庄豊教諭(64)の呼び掛けで、「宇治原子炉設置反対運動史研究会」をつくった。57年に国会で陳述した茶業者、川上美貞氏の孫らも参加。定期的に勉強会を開き、川上氏の手帳など新資料の解読も進めている。「3・11」から10年となる21年までに、研究成果をまとめた書籍の刊行を目指す。

 19日は午後2時から宇治市木幡の木幡地域福祉センターで玉井さんが概要を解説した後、原子炉予定地などを巡る。玉井さんは「実際に歩くと、取水や排水で使われる予定だった宇治川と、建設予定地が隣り合わせだったことが実感できるはず。まだ分からないことも多く、当時を知る人がいれば逆に教えていただけたら」と話す。参加無料。予約不要。玉井さん090(9048)7237。