米国カリフォルニア州で撮影された親族たちの集合写真

米国カリフォルニア州で撮影された親族たちの集合写真

生まれ育った地域で、日系アメリカ人の暮らしを振り返るゲリ-・アサノ(米カリフォルニア州ロサンゼルス郡)

生まれ育った地域で、日系アメリカ人の暮らしを振り返るゲリ-・アサノ(米カリフォルニア州ロサンゼルス郡)

 手元に1枚の写真がある。アジア系の約40人が写っているがラテン系の顔も見える。10年ほど前、米国にいる親族が日本で暮らす私の伯母に送ってくれた写真だ。親族の先祖は130年前に米カリフォルニア州に移民した。最近は交流が途絶えつつあったが、世界各地で移民問題が浮上するにつれ、言葉も国籍も異なる親族のことが頭を離れなくなった。コロナ禍で顕在化したアジア系差別も心配だった。

 「日本人」とは誰のことなのだろう。日本国籍の人や日本語話者というのも一つの答えだが、はるか昔に日本から外国へ移民した人の子孫はどうなるのか。米国籍で英語話者である私の親族は自身を「アメリカン」で「ニホンジン」だという。実はあいまいな「日本人」の境界。だからこそ多様性を宿しているのかもしれない。

 親族の足跡をたどることで、多様化する世界における「日本人」について描けないか。思い切って、親族に会いに渡米することにした。

 約10時間のフライトを終えて米ロサンゼルス空港を出ると、マスク姿でピンク色のシャツを着た男性が手を振っていた。「ナイス・トゥ・ミートュー」。あいさつを交わす。男性はゲリー・アサノ(69)といい、私の母親のはとこに当たる日系米国人の3世だ。母親が10代だった半世紀前に文通をしていたが、私は初めての対面だった。

 「私はロサンゼルスで生まれ育ったんだ」。空港から宿へ送ってくれる途中で、ゲリーが語る。ゲリーと私たちは半世紀ほど音信が途絶えていたが、今回の旅に先立ってSNSで調べてコンタクトを取った。私だけでなく母とも対面したことはないにもかかわらず、宿の手配からほかの親族の紹介までゲリーが担ってくれた。

 ハンドルを握るゲリーは、早口でしゃべり続ける。「私が育った辺りには『ニホンジン』が多く住んでいて、『ハクジン』はほとんどいなかった」。両親はともに日系米国人だが、ゲリーは日本を訪れたことがなく、日本語もしゃべれない。彼の英語を聞き取るのは大変だが時折、日本語の語彙(ごい)が混じる。子どもの頃、夏には盆踊りを楽しみ日本人学校にも通った。妻も日系人だという。

 日本人の米国への移民は、中国人労働者の米国移住を禁じた排斥法が1882年にできた後、本格化した。移民はカリフォルニア州などの西海岸に集まった。私の親族もそうした歴史の流れの中で、海を渡った。最初に移民したのは私の曽祖父の皆部梅太郎で、92年のことだった。

 梅太郎は1940年に亡くなったため、渡航の詳細は伝わっていない。しかし梅太郎の妻長名(はな)が、60年代にインタビューに答えたとみられる新聞記事が手元に残っている。記事によれば、梅太郎は弟も呼び寄せ、カリフォルニア州で日系人のための金融機関で働いた。その後、同州中心部にあるリビングストンで農場を開いた。ブドウなど果樹を育てながら、仲間の日本人たちと規模を拡大した。梅太郎は21年に帰国したが、弟たちは米国で暮らした。

 日米開戦や強制収容所、戦後の日系人差別。さまざまな苦難の中、梅太郎の子孫は生き抜いた。彼ら彼女らは、日本と米国という二つの「祖国」にどんな思いを抱いているのだろうか。

 「今回の君の滞在を、私たちは楽しみにしている。できる限りたくさんの人に会ってくれ」。ホテルへ車を滑り込ませながら、ゲリーが言った。(敬称略)

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