京都市内から電車や自動車に乗って大阪方面に向かうと、大山崎の辺りで線路や道路が近接して並走する様子を見ることができます。これは、東側に三川(さんせん)(桂川・宇治川・木津川)が流れており、西側からは今回取り上げる天王山が迫っていて、通り抜けできる平地が限られているためです。

山崎城跡

 このように天王山は、摂津方面から京都盆地への入り口に当たる大山崎を眼下に望む場所にあるため、軍事上の要として古くから城が構えられていました。例えば、応仁・文明の乱の際には、東軍の山名是豊(これとよ)が「鳥取尾城」という名前の城をこの地に構えていたことが史料に記されています。その後も戦国時代を通じて、何度か城主を変えながら、城郭が存在していたことが文献からうかがえます。

天王山頂に残る山崎城跡の天守台状高まり

 天王山が歴史の表舞台に登場するのは天正10(1582)年のことです。この年の6月、明智光秀は本能寺の変を起こし、主君織田信長を滅ぼします。変の知らせを聞いた羽柴秀吉は、交戦中だった毛利氏と和睦を結び、備中から京都へ大急ぎで進軍しました。両者は天王山の麓、現在の大山崎ジャンクションの辺りで円明寺(えんみょうじ)川(現小泉川)を挟んで対決しました。一般に「天下分け目の天王山」という言葉で知られている山崎合戦です。この時秀吉は、天王山中にある宝積寺(ほうしゃくじ)に本陣を構えたとされます。

 この戦いに勝利した秀吉は、京都近郊における自分の拠点となる城を築くべく、戦いの翌月には天王山にて普請を開始します。遺跡として今に残っている山崎城跡はこの時に秀吉が築いたものです。

赤色立体地図(大山崎町教育委員会提供)

 現在、天王山頂付近には南北約200メートル、東西約250メートルの範囲に渡って20近くの郭(くるわ)が残っています。山頂にある主郭には天守台と考えられる高まりが残っており、周辺には城の部材として使われたとみられる石材や転用された石塔、瓦などが散在しています。主郭の西側や南側にはひな壇状に郭が続いており、城に伴うものと思われる井戸が残っています。東側にも一段低い場所に郭が展開しています。これらの郭には土塁や虎口(こぐち)、石垣などの遺構が良好に残っています。

 山崎城跡については、今のところ発掘調査は行われていませんが、大山崎町教育委員会によって航空レーザー測量が行われています。その成果が赤色立体地図です。この地図からは、細かな地形の変化や、土塁や虎口など城跡の遺構を鮮明に読み取ることができます。従来は現地の測量によって図面を作成していましたが、それでは表現しきれなかった情報が赤色立体地図では表されています。このような詳細な情報を得ることで、今後の調査を効率的に行なうことができ、遺跡の保護へとつながっていくのです。

南東方向の木津川流域から見た天王山

 さて、秀吉によって築造が進められていた山崎城ですが、普請開始から2年後の天正12(1584)年には破却されてしまいます。『兼見卿記(かねみきょうき)』3月25日条に「今朝山崎之天守ヲ壊チ取ランガ為、奉公罷リ越ス」という記述があり、天守が存在したことや、この日に城が破却されたことがわかります。前年には大坂城の普請が始まっており、これ以降秀吉の拠点は大坂に移ります。

 秀吉が築造した城として、大坂城や聚楽第(じゅらくだい)、伏見城に先行する山崎城ですが、破却後再建されることがなかったため、秀吉時代の遺構があまり改変を受けずに残存しています。また、遺跡が地上に残っており、誰でも現地を見学できます。これらの点において山崎城跡は、高い歴史的価値を有している遺跡といえるでしょう。

天王山中から見た京都盆地。山麓付近が山崎合戦の跡地

 天王山にはハイキングコースが整備されており、麓から歩いて登ると1時間ほどで山頂の城跡にたどり着きます。山中の展望台からは、光秀と秀吉が対峙(たいじ)した山崎合戦の古戦場を眼下に一望することができます。紅葉が美しいこの季節、皆さんも現地を訪れて遠い戦国時代に思いをはせてみてはいかがでしょうか。なお、瓦や土器などを持ち帰らないようお願いします。 (文化財保護課記念物担当 岡田健吾)