2024年、京都でNIE(教育に新聞を)全国大会が開かれる。教育現場での新聞活用の概念や活動は1930年代に米国で始まり、日本でも85年以降、教育界と新聞界が協力して展開している。だが、歴史をさかのぼれば京都では1915年ごろ、小学校の授業で新聞を読む子どもたちの写真が残っており、戦後は新制中学校が学校新聞を発行し、国家再建や民主主義について教員と生徒が熱い思いを語っていた。学校現場で新聞はどんな存在だったのか。京都市学校歴史博物館(下京区)に残る史料から当時の様子をひもといた。

歴史が大きく動いた時期 内外の動き、学ばせる狙いか

大正期の修道尋常小学校での、新聞を使った授業の様子(1915年ごろ。写真提供:京都市学校歴史博物館)

 市学校歴史博物館は常設展示で1915年ごろの修道尋常小(現在の京都市東山区)の授業写真を紹介している。20人以上の男子児童が新聞を手にしている。伸びた背筋が印象的だ。

 展示を見た元毎日新聞記者城島徹さんの調査で、写真は3月に行われた6年生の授業だと分かっている。中央は担当の教員、左端の男性は「戦友」を作詞した文学者で、校内に児童文庫を創設するなど意欲的な初等教育を実践した校長の真下(ましも)瀧吉(飛泉)だ。

 児童が手にしている新聞は大阪毎日新聞だと分かった。同紙は他社に先駆けて、文語ではなく話し言葉(言文一致)で原稿を書いていたため、児童が読んでも分かりやすいと考えられたのかもしれない。同博物館学芸員の林潤平さんによれば、学校の授業で新聞が活用されたことを示す最古級の写真だという。

 なぜ授業に新聞が使われたか。この時代は歴史が大きく動いた。日清戦争(1894~95年)後、日本は経済発展を遂げ、国際社会での存在感も大きくなる。1904年には日露戦争が起こり、14年には第1次世界大戦が勃発する。

 次代を担う児童に、新聞を読むことで国内外の動きを感じさせたいとの教員や保護者の思いがあったのかもしれない。卒業を控えた時期で、春には社会に出る児童もおり、世の中を知ることが現代より急務だったとも考えられる。

 新聞はこの時期、急速に近代化していた。京都新聞の前身である京都日出新聞は1897(明治30)年、市内に電話が開通したことで取材方法が一変し、部数、記事量ともに伸びたため、フランスに輪転機を注文している。日露戦争では戦況を知らせる号外を各社が多いときは1日4回も発行し、国民は競って新聞の情報を求めた。

 1912年、明治天皇の容体が悪化した際は、京都日出新聞は1日5回の号外を発行、崩御に続く「御大葬」では日本初の写真入り号外を出している。

 各紙の競争も激化し、大阪朝日、大阪毎日がタブロイド判の「京都付録」を発行して京都に食い込もうとしていた。京都日出新聞も特別付録として月2回の読み物を発行するなど対抗策に努めている。

 修道尋常小の授業はそんな時代に行われた。新聞が当時の最新メディアであったことは間違いなく、それに触れさせようとする教育現場の空気も、現在のNIEとは違ったものであったろうと想像される。

1908年に作られた「柳池尋常小学校教育概覧」のうち「学校新聞」の項。教員が執筆する学校新聞についての意義や注意事項が書かれている

 学校で新聞を作るという取り組みも明治後期には行われていた。1908(明治41)年、柳池尋常小が教育方針やカリキュラムをまとめた教育概覧には、教育実践の一環として「学校新聞」の項目がある。学校や社会のできごとを教師が執筆し、児童に知らせるために新聞の形で制作していたと考えられる。掲示なのか回覧だったのか定かではないが、林学芸員は「新聞という言葉や概念が、できごとや情報を知る手段として浸透していたことは間違いない」と話す。

突然の「民主主義」戸惑い

右から、上桂中の学校新聞「桂中新聞」、尚徳中の「尚徳中学新聞」、学級新聞「黎明」(写真の一部を加工しています)

 終戦後の1947年4月、新学制による小中学校の義務教育制が発足した。京都市内の複数の中学校にこの時期の学校新聞が残っている。それまでの教育方針が180度変わり、民主主義への劇的な変貌に教員や生徒には戸惑いが広がった。学校新聞にはその戸惑いが透けて見える。

 教員には悩みや反省の色が濃く、若い世代の生徒たちは迷いながらも新国家建設に進もうとする思いが強かったようだ。紙面からその例を拾ってみた。

 48~50年の尚徳中(下京区)の新聞は毎号、冒頭に平井乙麿校長の言葉がある。形式的なあいさつではなく、率直な心情の吐露が多い。卒業式を控えた3月には、3年生が入学した時の作文に「ちっぽけな学校」と書いた生徒がいたことを打ち明け、「これでも中学校―と門を見上げた君たちの気持ちはみじめだったろう。僕もせつなかった。すまない思いでいっぱいだった」と書く。

 京都の新制中学の設置は、進駐軍民間情報教育局課長だったエリオット・ケーズの指導で進められた。「イケーズ(意地悪)」の異名をとるほどワンマンな手法で知られたケーズは、敗戦で資財も土地もない中、小学校の校舎を転用するなどしたため中学生の教育にふさわしいとは言い難い環境の学校もあったようだ。市学校歴史博物館の林学芸員は「設備や土地の不足は尚徳など都心部の学校で顕著だった。狭い校舎で運動場も小さく、生徒に申し訳ないと思う先生は多かったはず」と推測する。

 尚徳中のある教員は「懺悔(ざんげ)」と題した一文で「君たちが真面目な生徒であればある程、自分の学力や修養の足らないことがどれほど自分を苦しめていることでしょう」と書いた。「だから皆さんも若いうちに勉強を」と続くのだが、戦中までなら教員自身の力不足を生徒に吐露するようなことはなかったに違いない。

 自信喪失気味の大人たちに業を煮やしたのか、ある男子生徒は「日本人は自信を失いすぎていないか」と書く。「戦争には負けたけれども、頭の良しあしでは他国民にひけを取っていない」と湯川秀樹のノーベル賞受賞を挙げ、「これからは武力の日本ではなく文化の日本として出発せねば」と結んだ。

 上桂中(西京区)では女子生徒が、敗戦で教員絶対の「封建時代」が終わり、生徒と教員が協力して学校をつくる時代になったのに心が通い合っていないと指摘し「学校全体が打ち解け合ってこそ、このみじめな敗戦日本を立派に建設していけるのです」と説く。

 新制中学で起こった大きな変化の一つは男女共学だった。協力して国家再建という理想も「男女七歳にして席を同じうせず」の慣習にはなじまず、生徒たちの紙面座談会では「クラスで男女が対立している」「共学大反対」と、とげとげしい現実を正直に伝える。

 学校新聞は特筆すべき史実を記録しているわけではないが、戦後、国民が抱いた思いを生きた言葉で伝える貴重な史料と言える。

共学巡り、男子VS女子激論

 男女共学についての新聞班座談会は1948年11月の「桂中(けいちゅう)新聞」(上桂中)に掲載された。メンバーは1~3年の男女各5人、司会は教員とみられる。

 「女がいればなごやかになるかと思ったが、女だけで集まっている。こんなことなら別々にしたほうがよい」。男子が言えば、女子も「大反対」と共学には否定的だ。団結して国家再建どころか、一つの教室内で別々に固まっている生徒たちの情景が想像される。対立の原因として男子は「女子に参政権が早く与えられすぎた。その権威をかさに着て男を抑えようとする」と主張する。男子の1人は双方が歩み寄るために「宿題などで分からない点は近くの女の人に尋ねて打ち解けることだね」と提案するが、別の男子は「そんなことを周囲の者が許すものか」と反論。年齢的にも周囲の目は気になっただろう。女子は「一部の人が仲良くしようとしてもだめ。皆が協力しなければ」とたしなめる。

 共学に対する家庭の反応を聞かれ、男子は「共学で僕がどんなに変わるか、関心を持って見ておられる」と言い、女子も「父は、男の方が優れた能力を持っているから、良い感化を受けるだろうと期待しておられる」と言う。一方で「でも隣でおばあちゃんは怒っている」と笑うと、別の女子も「うちも母は良く言わない。第一お行儀が悪くなったって」と同調する。保護者の受け止め方にも男女差はあったようだ。

 司会の教員は「共学は戦後初めてで、たくさんの問題を含んでいる。新しい男女関係性道徳の確立はきみたち若い力にまつ他ない。古い教育を受けた人は古い考えから抜けきれないから」と結ぶ。新制度を手探りで進める中、教員側にも正解はなく、より良い方法は生徒たちの自主性に任せようということであったのかもしれない。

NIE全国大会

 NIE(エヌアイイー、教育に新聞を)活動について全国の教育・新聞関係者や市民が集い、在り方を考える大会。各都道府県の持ち回りで行われ、2024年の第29回大会が8月1、2日、京都市で開催される。京都開催は初めて。日本新聞協会が主催し、京都府と京都市の各教育委員会が共催する。京都新聞社と府内に拠点のある新聞・通信社や教育関係団体でつくる府NIE推進協議会が主管する。

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