平安前期の池状や溝の遺構が見つかった発掘現場。写真手前に池があり、奥で狭まって溝へとつながる(京都市中京区・花園大)

平安前期の池状や溝の遺構が見つかった発掘現場。写真手前に池があり、奥で狭まって溝へとつながる(京都市中京区・花園大)

 京都市中京区西ノ京の花園大敷地の発掘調査で、同大学は27日、平安時代前期の貴族邸宅にあった池状の遺構が見つかったと発表した。現場は平安京右京二条三坊九町に当たり、同大学は遷都から100年足らずの9世紀後半までには池などが廃絶し、右京の衰退が文献で明示される平安中期以前から進んでいた痕跡とみている。

 池状の遺構は調査地北側にあり、最大幅が南北5メートル、東西7メートルで、南の端が狭まって溝につながっていた。溝は長さ20メートル、最大幅4メートルで、敷地中央部を流れていた。近くには柱間が約3メートルある建物の柱穴(最大径30センチ)が二つあった。溝などの埋め土からは、9世紀中ごろ~後半の土器、平安宮といった場所に使用が限られた緑釉瓦(りょくゆうがわら)が出土したという。

 こうした遺構や遺物のほか、平安宮から西1・5キロの好立地にある点を踏まえ、調査を指導する花園大の高橋克寿教授(考古学)は「120メートル四方の1町分を占有した上級貴族の邸宅跡があり、平安京造営から100年もたたないうちに廃絶した可能性がある」と推定する。貴族邸宅地としての右京は、平安中期の文人・慶滋保胤の「池亭記」(982年)の記述から同時期以降に衰退が顕著になるとされるが、平安前期からすでに起きていた痕跡ではないかとみる。

 廃絶の理由では、池や溝の下層に自然流路があり、豊富な水の制御に悩んで放棄したことが想定される。また、平安前期は承和の変(842年)、応天門の変(866年)といった藤原家と他の貴族の争いが相次ぎ、政治的影響で使われなくなった可能性もある。高橋教授は「遺物や邸宅所有者を検証し、理由を考えたい」と話している。

 発掘調査は花園大で考古学を学ぶ大学院生・学生8人が、新校舎建設に伴い大学内の約360平方メートルを調べている。11月30日午前11時から現地説明会を予定。小雨決行。同大学075(823)0578。