原文は松村博司校注『日本古典文学大系21』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している。
 

  先年、入道殿(藤原道長)が、大堰川へ行楽の遊覧にお出かけになられた折、漢詩文を作る作文の舟、音楽の管絃の舟、和歌の舟と三つの舟を別々にお出しになり、それぞれの道に優れた才能をお持ちの方々をお乗せなさったのですが、先ほどから話題にしております大納言(藤原公任(きんとう))が参上なさったのを見て、入道殿は、「あの大納言は、三つのうち、どの舟に乗るのが相応(ふさわ)しいだろうな」とおっしゃったので、大納言は「和歌の舟に乗りましょう」とおっしゃられて、次の和歌をお詠みなさったのですよ、

 小倉山を荒らす嵐の風が寒いので、散る紅葉の葉が錦のようにふりかかり、紅葉の錦の衣を着ない人はいない

 自分で願い出ただけのかいあって、いいお歌をお作りになられましたな。噂(うわさ)では、公任卿ご自身も、「ああ作文の舟に乗れば良かった。作文の舟に乗ってこの和歌の出来栄えぐらいに上等の漢詩を作っていたなら、私の名声も、よりいっそう高く挙がっていただろうに。残念至極なことよ。それにしても、道長殿が『どの舟に乗ろうという心づもりか』とおっしゃったのを聞いてね、我(われ)ながら、鼻高々の心おごりを押さえられなかったよ」とおっしゃったとか。

浮田一惠筆「大堰川遊覧・子日桜狩図屏風」御寺泉涌寺蔵、六曲一双、嘉永7<1854>年)の「大堰川遊覧図屏風」。『十訓抄』は『大鏡』の同話に「円融院、大井河逍遙の時、三の舟にのるともあり」と付言し、さらに源経信(「文遊回廊」第23回)が主役となる、白河院が西川(大堰川)に行幸して「詩・歌・管絃の三のふねをうかべ」た説話を続ける
 

歌が詠めて漢詩文、管絃も

 入道殿は、太政大臣に昇り詰めた翌々年の寛仁三(一〇一九)年に出家した藤原道長。大納言は、「太政大臣頼忠」の長男で、四条大納言が通称の藤原公任を指す。古典の日ゆかりのエピソードで「このわたりに、若紫やさぶらふ」と紫式部に声をかけた、あの人だ(「文遊回廊」第13回)。道長と公任は、康保三(九六六)年生まれの同い年である。

 「世継(よつぎ)の翁が物語」の異名を持つ『大鏡』は、万寿二(一〇二五)年に紫野の雲林院(うりんいん)で催された菩提講(法華経を講じ念仏を唱和して極楽往生を願う)に、一九〇歳の大宅世継(おおやけのよつぎ)が、旧知で一八〇歳の夏山繁樹(なつやまのしげき)と再会するところから始まる。「年頃、昔の人に対面(たいめ)して、いかで世の中の見聞くことをも」語り合い、「ただ今の入道殿下の御有様」も談義したいと思っていた世継は、この邂逅に歓喜し、居合わせた「年三十ばかり」の侍にも促され、自ら見聞した歴史を、鏡に映し出すように語っていく。法会の講師が登場するまでのその様子を、匿名の筆録者が傍らで聞書(ききがき)して『大鏡』が残された、との設定だ。

 『大鏡』は別の箇所で「この殿、ことにふれてあそばせる詩・和歌など、居易、人丸、躬恒、貫之といふとも、え思ひよらざりけむとこそ、おぼえはべれ」と道長を讃える。白楽天、歌聖・柿本人麻呂、『古今和歌集』撰者の凡河内躬恒や紀貫之をも凌駕する漢詩と和歌を作った、という理想化だ。一方の公任は、紛れもなく当時最高の教養人で、『和漢朗詠集』を編纂した。漢詩文の名句と和歌を、分類された項目のもとに配列するこのアンソロジーは、後世の規範となった。なるほどこの二人なら、さもありなん…。

 だが史実は少し異なる。『日本紀略(にほんきりやく)』によれば、花山朝の寛和二(九八六)年十月十日、前年に出家した円融法皇が大井河に遊幸し、「翫水辺紅葉」という題で、詩を作らせ和歌を詠ませた。摂政藤原兼家以下、多くの臣下が付き従ったという。『古事談』は、「円融院の大井川逍遥の時、御舟に御(おは)して都那瀬(となせ)に到り給ふ。管絃詩歌各(おのおの)其の舟を異にす。公任三舟に乗る度(たび)なり。先(ま)づ和歌の船に乗る」と誌し、十月十四日のことだと注記する。公任はどうやら、詩と管絃の舟にも乗り、才能を披露したらしい。公任と源相方(すけかた)(重信(しげのぶ)の子、宇多天皇曾孫)が抜擢され、「三之船」を兼任したとの記録もある(『源時中(ときなか)横笛譜裏書』)。戸無瀬への遊覧は、芭蕉も「大井川に舟をうかべて、嵐山にそうて戸難瀬(となせ)をのぼる」と書いている(『嵯峨日記』五月二日条)。

 『古事談』によると兼家は、管絃の船に乗っていた源時中を召し寄せ、「参議を拝する由を仰せら」れた。天皇のいない場で、法皇の命を受けて摂政が参議という公卿(くぎよう)を任命する(「主上の御前に非(あら)ずして、法皇の仰せを奉じて参議を任ずる」)異例だ。いかがなものか。人々は大いに首をかしげていぶかったと『古事談』は記す。時中は、十月十五日、正式に参議に任じられた(『公卿補任(くぎようぶにん)』)。配列や文脈から見て、『古事談』に載る批判的言辞の出典は、藤原実資『小右記』の逸文ではないかと推測される。『小右記』は、道長の「このよをば…」の和歌を記した、あの日記である(「文遊回廊」第4回)。時中は、重信の兄雅信の子で、妹の倫子は、翌寛和三年に道長の正妻となる。兼家は、御幸に際し、法皇の「御膳」を設ける(『続古事談』)など、このイベントの立役者であった。

 十三世紀の説話集『十訓抄(じつくんしよう)』は、『大鏡』と同じ説話を掲げ、公任の和歌を「朝まだき嵐の山の寒ければ散るもみぢ葉をきぬ人ぞなき」と引く。そして花山院が『拾遺和歌集』撰集の時、「散るもみぢ葉」を「紅葉の錦」と変えて入集したいと伝えたが公任は断り、「もとのまま」で『拾遺集』に入ったと続く(平安末期歌学書『袋草紙(ふくろぞうし)』が典拠)。『拾遺集』は、花山院が公任撰の『拾遺抄』を母胎として編集した、という説がある。だが『拾遺抄』に「ちるもみぢば」とある公任歌は、現行の『拾遺集』には「紅葉の錦」で収録される。なお両集いずれも詞書に「嵐の山のもとをまかりけるに…」とあり、小倉山対岸の「嵐山」での所詠が明示される。『大鏡』の歌形は独自のものだ。

 

嵐山(京都市)

  丹波に発する保津峡の急流は、京都市内に入り渡月橋の上流でうそのように穏やかになる。この流れの両岸に山が迫る一帯が嵐山と呼ばれ、年中、観光客が訪れる京都でも有数の人気スポット。とりわけ、紅葉の秋と桜の春には想像を絶するにぎわいを見せる。

大堰川右岸から見る紅葉の嵐山、小倉山
大堰川

 渡月橋は人であふれていても、右岸はそれほどでもなく景色を楽しめるようだ。「朝の嵐山」ともいう。深い谷間を作る嵐山は、朝日によって桜も紅葉も輝きを見事に際立たせる。右岸の道を上流へとたどり、戸無瀬の滝あたりから左岸を見れば、その奥には小倉山。紅や黄の裾模様も鮮やかに、まさに「にしきのころも」のたたずまい。

 平安時代のように歌や詩を詠(よ)み、管絃を奏する雅なふねの姿こそない今の大堰川だが、屋形船やボートが行きかい、岸辺の紅葉が夢のように川面に映りたゆたう風情-なかなかいい。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)