鐘楼上層より見た境内。庫裏(左奥)方丈(右奥)虎丘庵(右手前)などの近世の建造物群が残る

 酬恩庵は、「一休寺」の通称で親しまれる京都府南部の京田辺市薪(たきぎ)里ノ内に所在する臨済宗大徳寺派のお寺です。正応年間(1288~93)に大應国師を開山として創立した妙勝寺をその前身とします。兵火により荒廃しましたが、永享年間(1429~41)にとんち話で知られる一休宗純禅師が室町幕府6代将軍足利義教の援助により再興し、そばに庵を営み、寺名を宗祖の恩に酬(むく)ゆるの意から酬恩庵へと改めたのが創建になると伝えられています。

修理前の酬恩庵鐘楼。全国的にも数少ない禅宗様の袴腰付鐘楼

 一休禅師没後の戦国期に寺は再び荒廃していましたが、大阪の陣に向かう途中にその情景を嘆き見た加賀藩の2代藩主前田利常が再興を志し、修覆されたものが現在の伽藍(がらん)です。慶安3年から承応3年(1650~54)にかけて造営された方丈および玄関、庫裏、浴室、鐘楼、東司(とうす)(便所のこと)が現存し、永正頃(1504~21)に建立された本堂と共に一群で国の重要文化財に指定されています。そしてこれらは国指定名勝の方丈庭園とともに近世における禅宗寺院の姿を今に伝えています。

 

野木舞の修理前の状況。大正時代に古い野木舞の隙間に野木舞を補足したため、野地が縞模様に見えている

 今回修理をしている酬恩庵の鐘楼は、袴腰付(はかまごしつき)と呼ばれる鐘楼で、下層の板壁が柱に対して斜めに寄り掛かった特徴的な外観をした建物です。浴室前から本堂への参道に沿った南側の石積みの一段高い場所にあり、周りを樹木に囲まれていますが、上層の縁を支える腰組や、屋根を支える組物などに「禅宗様」と呼ばれる意匠が多用される立派な建物です。「禅宗様」とは、鎌倉時代に臨済宗の開祖明菴(みょうあん)栄西禅師がその教えと共に日本に伝えたと考えられる建築様式で、今では広く禅宗以外の寺院や神社等でもみられ、絵様(えよう)と呼ばれる渦状の模様もこの時に伝わったものと考えられています。当鐘楼で最も「禅宗様」の要素を示しているのは軒先の扇垂木で、並行に垂木を並べるのでなく、放射状に配された垂木が独特の雰囲気を醸し出し、建物を特徴付けています。

扇垂木と組物

 さて、修理前の鐘楼は軒先の瓦がずれ落ち、屋根瓦の傷みが著しくなっていました。また、瓦を受ける木材の瓦座等も腐朽して一部が脱落し、早急な修理が必要とされる状況でした。このため、2018年11月から13カ月をかけて本瓦葺(ぶ)きの葺き替えを主とした修理工事を行い、それに伴って瓦の調査を進めると鐘楼の来歴についてさまざまなことが分かってきました。

 まず、鐘楼には、現在はこけら葺きに復元されている庫裏の屋根がかつて本瓦葺きに改変された時に使用されていた瓦と同じものが大量に使われていました。絵図などから庫裏と同時期の、17世紀中頃の建立から寛政元(1789)年までの間に鐘楼の瓦の全面葺き直しが行われ、瓦や棟積みを寸法の大きく立派なものに取替え、装いを整えたものとみられます。

 続いて、弘化2(1845)年には伽藍の諸建物が修理される等の記録が残りますが、鐘楼に大きな修理を受けた痕跡はみられず、瓦の部分取り替え等の小修理にとどまったものであることが分かりました。

拳鼻の絵様
頭貫の絵様

 さらに、大正期にも修理を行ったと伝えられていますが、驚いたことに屋根については瓦下地にあたる野木舞を解体した痕跡が見当たらず、江戸時代のものがそのまま残っていました。京都の禅寺では建立当初の良材を大切に使い続けているのをよく見かけますが、師から弟子へ「法を継ぐ」教えと通じ、ものを大切に取り扱うその在り方にはいつも感銘を受けます。このことは、傷んだ部分だけを修理し、できる限り元の部材を残すという文化財修理にも共通します。

酬恩庵(一休庵)

 この記事が掲載される頃には修理も終わり、装いを新たにした鐘楼の屋根がみられることかと思います。除夜の鐘に思いをはせつつ、ものを大切に取り扱うという思いにも感じ入っていただければ望外の喜びです。
(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 村瀬 由紀史)