山鉾町で授与されるちまき。現在は食べられない厄よけの縁起物が多いが、かつては食用の物が贈答品として使われていたという(京都市下京区)

山鉾町で授与されるちまき。現在は食べられない厄よけの縁起物が多いが、かつては食用の物が贈答品として使われていたという(京都市下京区)

 祇園祭の山鉾町のちまきは、かつて食べられる贈答品だったが、明治時代以降に食べられない厄よけの縁起物となり、広く授与されるようになったと考察した論文を京都文化博物館(京都市中京区)の橋本章学芸員がまとめた。近世には山鉾巡行に関わる職人や支援者への返礼やあいさつに伴って贈っていたが、近代化の環境変化を受け、祭礼の由緒を観衆に伝え、収入源にもできるよう、今日の姿に変化したとみている。

 現在のちまきはササの葉でわらを包み、イグサで巻いた物を束にしている。祭神に由来する厄よけとして多くが宵山期間に一般向けに授与され、玄関などにつるされるが、食べることはできない。

 橋本氏は江戸時代の文献や絵図で山鉾巡行とちまきの関わりを分析し、京都文化博物館の研究紀要で発表した。江戸中後期の史料で鷹(たか)山が菓子屋を思わせる「笹屋」から年当たり100~300束をまとめて購入しご神体の人形に供えたほか、巡行を支える車方や笛方、町会所、役所へのお礼で配られた旨が記されていた。橋弁慶山の文書にも「百文 粽(ちまき)代」と贈答用をうかがわせる記述があった。

 橋本氏は「中近世の京都では食用のちまきを祭礼などに際して贈答する慣行があり、これにのっとる形だった可能性が高い。絵図には複数の山鉾の上から囃子(はやし)方が観衆に投げる『ちまき投げ』が描かれ、贈答した後に余った物を配った様子と考えられる」とみる。

 一方、縁起物としての活用が目立ち始めるのは明治期以降という。近世にあった祭りの経費などを支援する「寄町(よりちょう)」制度が明治初期に廃止されたことが背景にある。八坂神社の祭神・牛頭天王(ごずてんのう)(素戔嗚尊(すさのおのみこと))が旅の途中でもてなしてくれた蘇民将来にお礼として子孫に疫病を免れさせると約束した起こりと効験を分かりやすく伝えつつ、授与を通じて収入も得られる点から広がったという見方を示す。厄よけになる中で食用が減っていったとみられる。

 橋本氏は「山鉾町のちまきは山鉾巡行にかかる社会関係を円滑に進める贈答品として登場し、近代以降の情勢変化の中で新たな役割を付与されて昇華したと考えられる。時代とともに移りゆく祇園祭の変化を象徴する縁起物ではないだろうか」と話している。