山口悟郎氏

山口悟郎氏

叡山を望む

叡山を望む

現在のボート乗り場

現在のボート乗り場

看板に書かれた「やってはいけないこと」を読み、よみがえったあの日

看板に書かれた「やってはいけないこと」を読み、よみがえったあの日

同志社高校スキー部時代

同志社高校スキー部時代

 初秋の昼前、ふと思い立ち自転車で宝が池まで行った。河原町通りに出て、府立病院を過ぎ、出町の老舗和菓子屋の前を抜ける。名物豆餅を手に入れようと相変わらずの大行列。コロナ禍でも変わらぬ京都の日常に心が和らぐ。下鴨神社を横目にひたすら北上する。ノートルダム女子大の角を曲がり北山通に。左に向きを変え、太ももに気合を入れる。最後は狐坂の自転車道だ。自宅から30分で到着。正面の叡山が圧倒する。山からの風は少し生暖かいが汗をかいた体には心地よい。

 一周1・5キロの池の周囲を歩き、貸ボート屋の前で足を止めた。そこには昔と違い立派なグラスファイバー製のボートが整然と浮かんでいた。桟橋の前には立て看板があり、やってはいけないことが書かれている。それを眺めているうちに、50年前の記憶が甦(よみがえ)る。あの日もこんな青空だった。

 昭和46年初夏。紺碧(こんぺき)の空の下、我が同志社高等学校スキー部員は岩倉キャンパスのチャペル前に集合した。普段は軽いアップの後、走りに行くのだが、この日は様子が違った。入部間もない私たち一年生はいつもと微妙に異なる空気を感じていた。何故か手にバケツやタライを持たされ、先輩たちはいつもどおりのランニングシューズだが靴下は履かない。不安の中、号令一下全員で宝が池まで走る。

 行進が止まったのは貸ボート乗り場だった。15、6名全員が6艘(そう)くらいに分乗し、三々五々に広がっていく。しばらくして上級生のボートが接近したかと思うと、いきなりバケツで水をかけられる。目的は一つ。沈没させるのだ。木製ボートなので完全に沈みはしない。ただ、ボートが満水になり操船不能に陥る。必死で水を掻(か)き出す者、慌(あわ)てて池に落ちそうになる者。さながら日本海海戦のバルチック艦隊のようだ。1時間ほどでほとんどの船が痛手を被るが、とにかく水を掻き出し、なんとか桟橋にたどり着く。ボート屋のおじさんに「ありがとう!」と、何事もなかったように、にこやかに上陸する。今ならパトカーの一台も駆けつけそうな騒ぎであるが、「毎度おおきに。またお願いねー」。おじさんたちはあくまでもビジネスライクである。なんとも大らかな時代であった。しかし、これで水練終了と油断した新入生は次の瞬間、突如桟橋から池に突き落とされる。抵抗し上級生を道づれにする者もいる。おじさんたちは明後日の方を向いている。そして、2列縦隊で声をかけながら部室へ帰る。やれやれ散々な午後だったと思う間もなく、螺旋(らせん)階段の上に潜んでいた先輩からバケツの水をお見舞いされ、弛緩(しかん)しきった新入生は再び水浸しに。そして、ようやくボートレースと称する歓迎行事が終了するのであった。人生一寸先は分からない。できる限り危険を予知し、それでも起こったことは素直に受け入れる。これが仕事にも役立っていると無理やり思ってきた。

 再び叡山が生暖かい風を運んだ。いまに戻った私は時計を見た。おなかがすいた。そろそろ帰ろう。遅くなったお昼は素麺にしてもらおう。

 やまぐち・ごろう 同志社大工学部卒。1978年、京都セラミツク(現・京セラ)入社。2013年、社長。17年から現職。KDDI社外取締役。京都商工会議所副会頭。京都放送社外取締役。一般社団法人日本ファインセラミックス協会会長。一般社団法人太陽光発電協会代表理事。京都市出身。65歳。