小さな重文 数奇の足跡

 あまたの仏像が伝わる世界遺産・東寺(教王護国寺)において、この秘仏は思いのほか小さい。境内の宝物館で5月25日まで特別公開されている重要文化財の「二間観音(ふたまかんのん)」。中央の聖観音(像高24.9センチ)、左右の帝釈天・梵天(ともに同21.7センチ)の三尊は、いずれも30センチに満たない。一見して拍子抜けするが、その小さな姿は、後醍醐天皇の吉野行も知る数奇な足跡を秘めている。

三尊中央の聖観音。現存するのは鎌倉時代の作という

天皇寝所の念持仏

 その名は、天皇の身近にあったことに由来する。内裏のうち、仁寿殿(じじゅうでん)や清涼殿という天皇が寝所にした殿舎において、柱間で二間あるスペースに置かれたことにちなむ。平安期の962年に宮中で始まった「観音供」で、東寺長者が毎月18日、天皇や国家の安泰を祈る際の本尊になっていた。天皇が最も身近に置いて拝んだ念持仏だった。

 現存の三尊は、鎌倉時代に造り直された慶派仏師の作になる。仏像が安置されていた内裏が、平安期から鎌倉期に十数回も火災に見舞われていた影響だろうか。造形は丁寧で、衣文に細く切った金箔を貼る「截金」が施され、仏の後光を示す光背に唐草の文様が透ける。

平安時代の内裏

内裏から吉野、東寺秘蔵へ

 それがなぜ東寺へ流転したのか。

 きっかけは14世紀の南北朝時代の動乱だった。後醍醐天皇は室町幕府を開いた初代将軍・足利尊氏らと対立し、京都から吉野へ移る。この際、二間観音を内裏から持ち出したという。吉野の南朝と京都の北朝が合一すると、1393年、仏像は京へ戻ったが、北朝系の後小松天皇は3代将軍・足利義満を通じて、東寺へ預けてしまう。

 東寺宝物館は「伝来の詳細は史料がなく、分からない。ただ、天皇の念持仏とはいえ、京都の内裏から持ち去られて50年以上が過ぎており、吉野の南朝のために祈りがささげられた仏像だったかもしれない。天皇家も分裂した南北朝期の余韻が生々しい中、北朝系の後小松天皇からすると、寝所に置くのは抵抗があったのでは」と指摘する。

南北朝時代などの天皇系図

尊氏拝んだ千手観音

 東寺は尊氏との縁も深く、逸話がいくつか残る。

 後醍醐と対立した尊氏は、光厳上皇を奉じて入京すると、東寺に陣を構えた。対する後醍醐は比叡山に逃れたが、新田義貞率いる2万の兵が攻め寄せ、決戦を挑んできた。虚を突かれた尊氏側は門を閉め、新田勢をかろうじて防ぐ。やがて東寺の鎮守八幡宮の神殿から流鏑(かぶらや)が敵陣へ飛び、これをきっかけに逆転勝利をおさめたとされる。東寺に「不開門(あかずのもん)」がある由縁だ。

 一連の戦いで尊氏が本陣とした「食堂」には、高さ6メートルに及ぶ本尊・千手観音立像(重文)があった。国宝「東寺百合文書」を研究してきた研究者はいう。

 「尊氏が日夜、この千手観音立像に戦勝を祈りながら寝起きしたと考えると、700年の歳月を超えて、思いを新たにするものがあります。この千手観音立像が、薄暗い食堂で過ごしていた尊氏と二重写しになり、私はいつも手を合わせるのです」(『上島有さんの東寺百合秘話 32』京都新聞社)

千手観音立像(重要文化財)。足利尊氏が熱心に拝んだとされる

 袂を分かった後醍醐と尊氏だが、2人ゆかりの観音が東寺宝物館の特別公開でともに紹介されている。

 その後、境内の宝蔵で秘蔵された二間観音が再び日の目を見るのは、およそ390年後だった。そこには、近世の皇統危機が絡んでいた。

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