現代アートの父への敬意
京都市京セラ美術館で開催された『森村泰昌:ワタシの迷宮劇場』展は、現代アートの父マルセル・デュシャンへの敬意に満ちたものです。デュシャンに扮した写真作品が、前回ご紹介した「だぶらかし(マルセル)」(1988)に加えて数点あります。これも前回触れた映像のほかに、「影の顔の声」(2022)と「衣装の隠れ家」(2022)というインスタレーションも設えられていて、どちらもデュシャンピアンらしい試みだと思います。

「影の顔の声」は、布に閉ざされた円形の空間内で、暗闇に流れ出る声を聴く26分ほどのサウンドインスタレーションです。真ん中に敷かれた畳、染付の香炉、昭和っぽいラジカセなどの小道具や、シンプルにして効果的な照明、映像、音楽も面白いのですが、重要なのはやはり声。森村自身が書いた奇譚と呼ぶべき物語を、本人が複数の声色を使い分けて語ります(演出:あごうさとし)。
デュシャンがこのような作品をつくったことはありません。ただし1914年に、こんな言葉をメモに書きつけています。
見ているのを見ることはできる。聴いているのを聴くことはできない。*1
言われてみると「なるほど」と思えます。何かを見ている人や動物を「見る」ことはできるし、実際よくあります。何かに耳を傾けている人や動物の姿を見ることも、ときにはあるでしょう。でも、誰かが何かを聴いているのを別人が「聴く」ことはありそうにない。視覚と聴覚の違いを的確に言い当てた金言であると言えるのではないでしょうか。

ところが、「影の顔の声」は「聴いているのを聴く」体験ができる希有な作品なのです。スモークがうっすら炊かれた暗い空間でひとつの声Aが発せられる。その声を聴いて別の声Bが立ち上がる。そしてもうひとつの声Cが……という繰り返し。BはAの声を、CはBの声を聴いている。それを我々観客は「聴く」ことができるのです。
それは言いすぎだし、錯覚だろう、とおっしゃるかもしれません。あるいは、そんな体験であれば、演劇、映画、テレビ、ラジオ、トークイベントなどと同じではないか、と。
確かに、ドラマなどの登場人物や、司会者とコメンテーター、トークの話者と聴衆は、自分が黙っているあいだは相手の言葉を聴いています。でも、我々観客は、その様を聴くのではなく見るのではないでしょうか。「視覚的動物」である我々が情報を摂取するのは、ほとんど眼から。ラジオを除く演劇、映画、テレビ、トークイベントなどの場合には、我々は「聴いているのを見る」体験をしているのだと思います。
「影の顔の声」はラジオドラマに似ていますが、闇の中で上演することによって観客の知覚を音=聴覚に集中させます。厳密に言えばお香の匂いが嗅覚を刺激しますが、スモークとともに、それも視覚を封じる効果を担っている。優れた録音再生技術のおかげもあって、少なくとも僕は、森村が森村自身の声を聴いているのを聴くように感じました。
直接的なデュシャンの引用
一方「衣装の隠れ家」は、撮影に用いた衣装や装身具、発想源となった書籍などを見せる作品です。面白いのは、会場全体で用いられている布で展示空間が囲われていて、観客は布と布のあいだから、布をかき分けて中を覗きこむ仕掛けになっていること。これは、かなり直接的なデュシャンの引用です。

デュシャンは1923年に芸術を放棄し、以降はチェスに没頭して、わずかな例外以外は作品をつくらなかったと思われていました。ところが1968年の死後に「与えられたとせよ:1.滝 2.照明用ガス」(1946–1966。通称「与えられたとせよ」)という作品の存在が発覚して世間を仰天させます。詳しい説明は省きますが、「衣装の隠れ家」はこの作品へのオマージュだと思われます。「与えられたとせよ」が、全裸の少女像が横たわる閉鎖空間を、木製の扉に穿たれたふたつの穴から覗き見るインスタレーションであるからです。


※連載「現代アートを読む」は原則月1回掲載です
『森村泰昌:ワタシの迷宮劇場』展
京都市京セラ美術館で2022年6月5日(日)まで
「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭2022」
2022年5月8日(日)に終了
(脚注)
*1 Marcel Duchamp, “La Boîte de 1914,” in “Duchamp du signe suivi de Notes,” ed. Michel Sanouillet et Paul Matisse, [Flammarion, 2008], p.60. 拙訳