同志社大学の留学生への文学の授業で、三島由紀夫の『近代能楽集』に収められた「葵上」を扱った時、三島が材を得た能「葵上」はもちろん、その能がもとにした『源氏物語』の「葵上」から読むことをシラバスに書いた。

 例年よりも多い受講者に選んだ理由を尋ねると、「『源氏物語』を味わいたいから」との答え。そこで、『源氏物語』の当該部分、「葵上」を読む前に、『源氏物語』の人物相関図や光源氏の愛した多くの女性を簡単に説明する時間を設けた。

 

 「葵上」の帖で、妊娠中の光源氏の正妻・葵上は、原因不明の病に苦しんでいた。加持祈禱によって悪霊を退散させることで健康を取り戻そうと、名だたる高僧を招くのだが、快癒どころか悪化の一途をたどる。そこで世間にはある噂が立つようになった。光源氏と愛し合っていたものの、近ごろ関係が悪くなった六条御息所の生き霊が葵上を苦しめているのではないか、と。

素直に愛情表現できない
 

 六条御息所は東宮(皇太子)の未亡人。高貴で美しく、さらには聡明だったため、彼女の周囲には文学サロンのようなものが形成され、世の男性の憧れの的だった。しかし光源氏は、そんな御息所をも自分に夢中にさせてしまう。はじめこそ二人の仲は順調だったが、プライドが高く素直に愛情を表現できない御息所のことを、光源氏はだんだん嫌になる。そのような折、正妻の葵上が懐妊、光源氏は初めて葵上を愛おしく感じ、御息所とはさらに疎遠になっていく。

 

 御息所は、自分の生き霊が葵上を苦しめているという噂が流れることにさえ大きな衝撃を受けるが、ある朝、自分の髪にも着物にも、芥子の香りが染みついているのに気づく。芥子は加持祈禱の場で焚かれるもので、もちろん御息所の日常生活には関わりのないもの。御息所は、髪や衣服に染み付いた芥子の香りを消そうとするが、絶対に消えることはない。つまり御息所は、自分が生き霊になって葵上を苦しめ、加持祈禱の対象になっていることを認めざるをえなくなるのである。

 54帖もある『源氏物語』のどの部分が好きか、と問われたら、私は間違いなくこの「葵上」だと答えるし、どの女性が好きかと聞かれたら、六条御息所だと答える。芥子の香りがしみついていることに気づいた時の御息所の悲しみ、必死で香りを消そうとするのに消えない時の呆然とした想いを、想像するだけで胸が締め付けられるような気がする。光源氏をどれだけ深く愛しても素直に表現できず、心が離れていった彼を引き留めることもできず、生き霊にまでなってしまう彼女が切なくて仕方ないのである。

「生き霊」になるまで…
 

 ではなぜ、御息所は生き霊になるまで苦しんだのか。そこに葵祭が深く関わってくる。

*写真は主に2019年撮影

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