莫妄想。
まくもうぞう。
妄想する莫かれ。

幼稚園児の春、奈良へ遠足にいきました。
こぽこぽと音をたて、ぬるまった水の流れる小川に、
ゼリー状の膜につつまれたカエルの卵が浮き沈みするのをみて、
5歳のぼくは、
「おなかに銀河星雲があったらおもしろいな」
と思いました。

そうしてしゃがみこみ、
手でカエルの卵をすくいあげ、
ぱくぱく、まるごと飲みくだしたのです。

大学生のころ、
「読めない字って、
読めるひとには読めるんやから、
最初は読めなくても、
ずうっと見てたら読めるようになるはず」
と思いたち、
図書館で古代ギリシア語やペルシア語の文献を集め、
下宿にもって帰って開きました。

日がな一日、毎週、毎年、
およそ一年半、キリル文字、ベンガル文字、
ヒエログリフなど、万巻の書を、
ひたすらめくりつづけた揚げ句、
ひと文字さえ読めるようにはなりませんでした。

撮影:いしいしんじ

二十代なかばに、
「シーラカンスの刺身って、
食べたら、ぜったい人生かわる」と思い、
翌週、
モーリシャス経由で東アフリカのコモロ島に行きました。
そもそも釣れませんでした。

ここ二十年ばかり、小説を書いて暮らしています。
かろうじて妄想が役に立つ、どころか、
妄想が湧かないと仕事にならない。

「星の見えない山のプラネタリウムで投影中ふたごの赤んぼうが見つかる」とか、
「町の中心を流れる洞川で『うなぎ女』たちと暮らす少年が海へ流される」とか、
「寺のコケに育てられた男性がはじめ美声のちにとんでもない悪声の歌い手になる」とか、
「まわりつづける湖にレコード針を垂らし100年分の『ものがたり』を釣る」とか。

どれも最低一年、長いものだと二年はかかる。
いま書いている長編は三年目に突入しています。
ふと考えてみれば、
小説に向きあっているときには、
他の妄念をいだかず、
そのたわごとに集中しきっている、といえなくもない。

揮毫:いしいしんじ / 撮影:山本陽平
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