「武者の世」支えた拠点

 平安時代末期に「武者の世」を切り開いた平氏と源氏は、京都のどこに館や宿所を構えたのか。その後に武家政権を担う足利、豊臣、徳川の拠点に比べると、判然としていない部分は多いが、平清盛や源頼朝の構想や願望もにじむという。

 近年の研究や調査で最も明らかになってきたのは、伊勢平氏が築いた「六波羅」(現・京都市東山区)だろう。

 2019年、発掘調査でこの地の移ろいを物語る発見があった。成果として平安時代末期に平氏が拠点にしたころの堀跡や、日宋貿易に関わった一族らしい中国製の高級陶磁器の遺物にとどまらず、より古い年代の墓が7基も見つかった。清盛の祖父・正盛の代から、平氏の拠点になる六波羅。もともとは、平安京郊外にある葬送地「鳥部野(鳥辺野/とりべの)」の一角に当たり、貴族の墓に用いられたとみられる平安時代の「笠塔婆(かさとうば)」も出土した。

六波羅跡の発掘調査で見つかった笠塔婆など。平氏が拠点化するまで葬送地だった名残になる

 「伊勢から都に出てきた正盛の頃は武士団の一つにすぎず、身分もそう高くなかった。都の外れになる寂しい場所だったが、安く広い土地を得られやすいところを選んだのではないか」(同志社女子大の山田邦和教授)

 もっとも軍事貴族・平氏にとって、大きな利点があった。

平安京郊外の軍事集落

 重要なのは「京外であったがゆえに、武具や殺生に関わるケガレが問題とならず、大規模な武装集団が居住できる」(『京都の中世史2 平氏政権と源平争乱』)こと。ケガレを嫌う貴族が住まう京中では、兵がうろつくのもはばかられたが、郊外では一定数を常駐させられ、緊急時には即応しやすい。東国や奈良への街道にも接し、利便性にも優れていた。

京都市内の発掘調査で見つかった鎌倉時代などの武具(京都市考古資料館)

 『平家物語』によると、全盛期には東西600メートル以上、南北500メートルの「廿(20)余町」の広さに、3200~5200余りの屋敷が並んでいた。清盛の「泉殿」を中心に、いまも残る「池殿町」「門脇町」といった地名が示すように、一門の屋敷が取り巻いて軍事集落をなしていた。

六波羅は中世の「城」か

 いざ合戦になれば「城」と化した。

 とはいえ、清盛がライバルの源義朝を倒す平治の乱(1159年)の「六波羅合戦」をつづった物語や絵図によると、邸宅は貴族と同じような寝殿造をイメージさせる造りだ。近世のような天守や高石垣は見当たらない。

 半面、これを取り巻くように、堀のほか、陣の前に並べる「搔楯(かいだて)」や木の枝を外に向けた「逆茂木(さかもぎ)」が臨時的に設けられていたようだ。「交通遮断を意識したようなバリケード」(『日本城郭史』)こそ、この頃の畿内城館における主な要素だったとの見方を裏付ける。

 合戦では義朝の子・義平がバリケードを突破し、邸内に攻め入ったものの、押し返されて義朝方の敗北に終わる。この軍事集落を足がかりに、平氏は政権を掌握してゆく。

六波羅の堀跡で見つかった中国製の陶磁器。日宋貿易に関わった平氏の関わりをしのばせる

 平氏はもう1つ、「西八条第」を中心とした館群も築いている。意外なことに、源氏の館も近いところにあったようだ。

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