2021年の秋。
息子ひとひの通うスイミングスクールの、
観覧席が閉鎖され、
レッスン修了まで、どこかで時間を過ごすことになりました。

学生時代、何度か入った名曲喫茶、
出町柳駅前にある「柳月堂」の階段をのぼっていきました。

ふしぎなピアノ曲がかかっています。
なんだこれ、クラシックじゃない。
ジャズでもない。現代音楽かな。
こんなふしぎなピアノ、きいたことがない。

まるで、ピアノが自分でうたっているみたいです。
あるいは、この世界、宇宙そのものが。

立てかけてあるレコードジャケットを見て、
目を疑いました。
「これ、俺も、持ってる」
このときまで、恥ずかしながら、
まともに向きあって聴いたことがなかったわけです。

ベートーヴェンの、最後のピアノソナタ、第32番。
うちに帰って同じレコードをかけました。
やはり、天体が、宇宙がうたっていました。

撮影:いしいしんじ

市役所の西にある中古レコード屋100000tアローントコで、
クラシックの棚をすべてチェックし、
第32番ソナタのレコードを5枚みつけました。
店主の加地くんが「いしいさんがクラシックってめずらしいね」と、
未開封の箱も薦めてくれました。
さらに7枚みつかりました。

朝、夕、プレイヤーにむかってすわり、
第32番の音をくりかえし浴びました。
地球がまわっている、宇宙もまわっているなあ、
と深いころで感じながら。
そのうち、ふっと思いあたりました。
第1番から順に聴いていったとしたら、
いったい、どんな風に聴こえるだろう。

ここ10年の蓄音器趣味のおかげで知りあった、
世界じゅうのレコード業者にメールを送りました。
「あなたの、お薦めのピアニストが弾く、
ベートーヴェンのピアノソナタのレコードはなんですか」
つぎつぎと返信がかえります。
「しんじがベートーヴェン、いったいなにがあった」
「狂ったのか」
なんていいながら、みなさん実に嬉しげに、
レコードのリストを送ってくれました。
ぼくは、そのほぼすべてを注文しました。

クラシックの中古盤は現在、オリジナルプレスであっても、
全世界的に、目をこすってしまうくらい安価です。
500円、300円はあたりまえ。
ときには、100円、50円、なんていう「捨て値」まで。

撮影:いしいしんじ

2週間ほど過ぎるころ、
国際郵便の段ボール箱が、
うちの玄関先に届きはじめました。
はじめはぽつぽつ、そのうち、五月雨状に、
アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、
イスラエル、カナダ、スイス、オーストラリア、
ブラジル、アルゼンチン、キューバ、プエルト・リコから、
夜の天空を横切り、
星々の光を縫って、
まるで、漆黒に塗られた空飛ぶ円盤みたいに。

世界じゅうから届いた、一枚一枚の、
ベートーヴェンのピアノソナタは、
それぞれの国の空気をまとい、
ぼくたちの住むこの星を包みこむように響きました。

ソナタ第1番は1795年に発表され、
ソナタ第32番は、1822年に完成しています。
その間、27年にわたる、
進化、飛躍、回帰、発見。

32曲のどれも、聴いている最中、
ベートーヴェンの息づかい、思索、
冒険、絶望と歓喜に、触れる感触をおぼえます。
柳月堂で感じたときのまま、
棚にしまわれた古典、クラシックではなく、
いま、現在に響く、生きている音楽。

揮毫:いしいしんじ / 撮影:山本健太

思遠。
しおん。
遠くを思う。
遠くのなにか、あるいは、
遠さ、遠いこと、
そのこと自体に思いをはせる。

THE KYOTOへの会員登録・ログイン
続きを読むには京都新聞IDへの登録が必要です。
京都新聞IDのご案内はこちら