出版案内
福祉事業団
京都新聞AR

湯川博士、原爆「F研究」に3回言及 終戦期の日記公開

「研究室日記」「研究室日誌」と表紙に書かれた湯川博士直筆のノート。終戦前後の出来事や関心を持ったことが記されている=京都大基礎物理学研究所湯川記念館史料室所蔵
「研究室日記」「研究室日誌」と表紙に書かれた湯川博士直筆のノート。終戦前後の出来事や関心を持ったことが記されている=京都大基礎物理学研究所湯川記念館史料室所蔵

 日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士(1907~81年)が太平洋戦争の終結を迎えた1945(昭和20)年に書いた日記について、新たに1~5月分の内容が21日、明らかになった。昭和天皇の玉音放送や原爆投下、京都帝国大の原爆研究「F研究」への関わりなどが記された6~12月分は、11月に京都新聞が報じている。追加で判明した日記からは、論文執筆に取り組む姿、京都への空襲など敗戦が迫る当時の様子が伝わる。

 日記はノートに「研究室日記」や「研究室日誌」と題された15冊ある中の一部。京都大基礎物理学研究所(京都市左京区)の湯川記念館史料室が会見を開き、1年分を公表した。

 新たな内容では、5月28日付で「荒勝教授より、戦研〈戦時研究〉(37の2 F研究)決定の通知あり」との記載がある。京都帝大は原爆研究を海軍から依頼されており、「F研究」の名で荒勝文策教授(原子核物理学)の研究室を中心に進めていた。

 F研究で湯川博士の担当は「原子核理論」だったとされているが、45年の日記では終戦までにF研究の文字があったのは3日分にとどまる。他のF研究出席者の記録から、湯川日記7月21日付にある「琵琶湖ホテルに行く」は海軍との合同会議と特定できるが、これを含めても、計4日しかない。原爆研究に日々を費やすような積極的な関わりはなかったことがうかがえる。

 一方で、「終日素粒子論原稿書きなどに費す」(1月31日)と戦争と無関係な基礎分野の論文執筆に力を入れている。「夜、画帳に昭和十六年までの歌61首を書き記す」(5月17日付)と、和歌創作に関連する記載があった。

 銃後の生活者としての側面も浮かぶ。日記は度重なる空襲警報に触れ、東京や大阪など他都市の被害にも言及している。「第2防空壕掘りはじめる」(3月24日付)と切迫した状況が伝わってくる。

 1月18日付には「16日夜、京都市東山女専へ米機爆弾投下、京都への投弾はこれが初めてである」とある。「馬町空襲」を指しており、25日付には「34人が亡くなった」など詳細な被害を記録した。

 日記は基本的に淡々と出来事を記述する形だが、感想を漏らすこともあった。

 2月9日付では電車を40分待たされ、理容店も満員でいったんは諦めたことなどを振り返り、「この頃は色々腹の立つことがあるがよくよく辛抱せねばならぬ」と戒めの言葉がある。5月31日付では、京大を訪れた詩人の三好達治と面談している。

 湯川博士の日記は、38年から渡米する48年までの「研究室日誌(日記)」や在米中の48~49年分、30年代分などが残されている。同史料室では解読を進め、ホームページで公開する方針という。

【 2017年12月21日 16時00分 】

ニュース写真

  • 「研究室日記」「研究室日誌」と表紙に書かれた湯川博士直筆のノート。終戦前後の出来事や関心を持ったことが記されている=京都大基礎物理学研究所湯川記念館史料室所蔵
  • 湯川秀樹博士
  • 湯川博士の日記について話す京都大基礎物理学研究所の小沼さん(中央)21日午後2時10分、京都市左京区・京都大
京都新聞デジタル版のご案内

    環境・科学のニュース