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列車の中

 うとうととして眼が覚めると…というのは夏目漱石「三四郎」の有名な冒頭部分だ。九州から東京へ、汽車の中の光景がユーモラスに描かれる▼今読むと、初めて乗り合わせた人たちがすぐにおしゃべりしているのが興味深い。最初に出てくる、頓狂(とんきょう)な声を出して駆け込んで来たじいさんは、滋賀の膳所あたりの駅から乗車したのではと作家の関川夏央さんが推定している(「汽車旅放浪記」)▼日本は滅びるね、と語ったひげの男も印象的だ。座席でベーコンの論文集を開く三四郎に声をかけ、話し込む。だが、近代の孤独と向き合った漱石も、こんな時代が来るとは想像していなかっただろう▼初めて乗り合わせた人に、いきなりなたで切りつけられる。新幹線殺傷事件から10日余り。おとといの朝刊に犠牲者の遺族のコメントが掲載されていた▼逮捕された男は「誰でもよかった」「社会に恨みがある」と話し、部屋には哲学や宗教の本が並んでいたという。犯行は断じて許せないものの、最悪の事態を引き起こす前に、何とかならなかったのかとも思う。ただの「迷える羊」の一人だった頃も、あったのではないかと▼男は22歳、三四郎は数えで23だから、同い年だ。列車内の光景はあまりにも違った。初めて乗り合わせて、命を奪われた男性が痛ましい。

[京都新聞 2018年06月21日掲載]

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