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第20回 和泉式部日記

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原文は遠藤嘉基校注『日本古典文学大系20』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している。

 夢よりもはかなく終わったこの世でのあの人との仲を嘆き、悲しみに沈んで日々暮らしているうちに、はや初夏の四月十日過ぎにもなったので、葉も茂り、木陰がだんだん深くなっていく。築地塀の土の上に生えた草の青々と目に映る季節になったのも、他の人は格別目にとめることもないが、私独り、感慨にふけって眺めていると、近くの垣根に人の気配がするので、誰かしらと思っていると、亡き宮様のもとに仕えていた小舍人童(こどねりわらわ)(雑用係の少年)なのであった。

 ものの哀れを感じ、しみじみと考え事にふけっていた時分にやってきたので、「なぜ長い間顔をださなかったの。遠ざかっていく昔を偲(しの)ぶよすがのように思っているのに」など人を介して伝えると、「具体的な用事もないのに訪れるのは馴れ馴れしくぶしつけなのでは、と遠慮しておりますうちに、普段は山寺へ参詣に出かけたりしてましてね、たいそう心許(こころもと)なく所在ないように思われるので、故宮の代りにお姿を拝見しようと、弟の帥の宮に参上し、お仕えしております」と語る。

 「それはまあ結構なこと…。あの宮様は、たいそう上品でよそよそしくとっつきにくい方でいらっしゃるとの噂よ。きっと昔のようなわけにはいかないわ」などと言うと、「そうではいらっしゃいますが…、私にはとても親しく接してくださり、『和泉のところには、いつもお邪魔してるのかい』などとお聞きくださって…」

「和泉式部図」(誠心院蔵)狩野休圓(1641~1717年)画 この絵の画意は不明。なお和泉式部は橘道貞との間に小式部をなした。小式部は母が藤原保昌と再婚して丹後に居ることをからかわれ、『百人一首』の名歌を詠む。小式部もまた二十代で早世。母は悲痛な哀傷歌を残す。この画像は誠心院ホームページで見ることができる
「和泉式部図」(誠心院蔵)狩野休圓(1641~1717年)画
この絵の画意は不明。なお和泉式部は橘道貞との間に小式部をなした。小式部は母が藤原保昌と再婚して丹後に居ることをからかわれ、『百人一首』の名歌を詠む。小式部もまた二十代で早世。母は悲痛な哀傷歌を残す。この画像は誠心院ホームページで見ることができる


世のなかは思い人と二人だけ



 和泉式部は、紫式部が一目置く文通相手だ。『紫式部日記』に「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける」とある。「されど和泉は、けしからぬかたこそあれ」、素行は感心しないが、気軽な手紙の走り書きにも「はかない言葉のにほひも見え」る文才だと評する。もちろん「歌はいとをかしきこと」、「恥づかしげの歌よみや」。こちらが恥ずかしくなるほどの名歌人と絶賛だ。同じ『紫式部日記』が「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名(まな)書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬことおほかり」<自慢げな顔して嫌なヤツ。あんなに賢ぶって漢字を書き散らしているけれど、よく見ると間違いだらけよ>と浴びせた罵詈雑言と対照的である。

 原文は『和泉式部日記』の冒頭で、長和五(一〇〇三)年のこと。和泉式部の嘆きは、前年六月十三日に早逝した愛人の「故宮」、冷泉天皇第三皇子の為尊(ためたか)親王(九七七~一〇〇二年)への追慕だ。弟の第四皇子が『和泉式部日記』の中心人物、敦道(あつみち)(九八一~一〇〇七年)である。親王が在京のまま任じられる大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官)となって「帥の宮」と呼ばれた彼は、最初、清少納言が仕えた中宮定子の妹、藤原道隆三女を妻とした。だが彼女は容貌も気だても未熟な人。『大鏡』は、来客時に御簾(みす)を押しのけ胸を露(あら)わにして立ち、夫を当惑させた逸話を誌(しる)す。敦道も「わが御心ざしはゆめになし」。愛のない結婚だった(『栄花物語』)。後に離婚。この頃は、小一条(こいちじよう)大将藤原済時(なりとき)の娘が北の方である。「二三年ばかり」(『大鏡』)添うたこの妻も、敦道と不仲だったらしい(『和泉式部日記』)。そして宮は、この後「和泉守道貞(みちさだ)が妻(め)」との恋に「思(おぼ)し騒」ぐこととなる(『栄花物語』)。

 敦道と和泉式部は、小舎人童を仲介として、歌集のように和歌で彩られた文(ふみ)を交わし、亡き兄の寵愛(ちょうあい)を「うけとり思(おぼ)す」(『栄花物語』)かのごとく恋に落ちた。敦道が和泉の住まいを訪ね、時に外へと連れ出して、逢瀬(おうせ)を重ねた。宮の立場での訪問は制約が多く、和泉にまつわる男の影や噂(うわさ)も気になる。やがて、自邸に来いよと敦道が誘(いざな)う。年末十二月十八日、和泉はついに敦道の屋敷に迎えられ、北の方と周囲の人々の気持ちをかき乱す。だが宮は、和泉はあくまで召(めし)使いの女房だ。遠慮無く使ってくれと北の方に伝え、和泉もそのように働く。つまりは、召人(めしうど)という身分の愛人という位置づけになる。

 しかし年を越した正月、里にいた北の方の姉「春宮の女御」―後に三条天皇皇后となる娍子(せいし)は見かねて手紙を寄こし、実家の小一条殿(京都御苑の宗像神社あたり)に帰ってらっしゃいと促した。北の方も決意し、慌ただしく宮の邸宅を退出しようとするところで『日記』は唐突に終わる。此の方は「宮、和泉式部に思(おぼ)しうつりにしかば、本意(ほい)なくて」(『大鏡』)「居(ゐ)わづらひ」(『栄花物語』)、小一条に戻ったが、その後、零落する。『大鏡』に詳しい。

 季節感に富む『和泉式部日記』だが、年中行事のような儀礼には不思議と触れない。ほぼ唯一の例外は、最終局面直前の「正月一日」、宮の父、冷泉院への拝礼を描く場面だ。多くの貴族達の中に「宮もおはしますを」、彼が格別「いと若ううつくしげにて」衆目を集めた。女房の一人として遠望する和泉式部は「これにつけても、我が身はづかしうおぼゆ」。彼女の「世のなか」は、依然、思い人との二人の世界ばかりなのだ。

 『和泉式部日記』冒頭のすぐ後に、中(なか)の酉(とり)の日の賀茂祭(葵祭)があった(この年は四月二十四日)はずだが、『日記』は何も誌さない。だが寛弘二(一〇〇五)年の賀茂祭では、敦道が「御車の後(しり)には、和泉を乗せさせたまへり」と話題になる(『栄花物語』)。『大鏡』は「祭のかへさ」(翌日の斎王還御)に、宮が牛車の前簾を真ん中で縦に切り、自分の方は高く掲げ、和泉の方は下ろしたままで出衣(いだしぎぬ)を長く垂らし、紅の袴に幅広の赤い色紙の物忌(ものいみ)札を付けて、地面すれすれに下げたという。度肝を抜くエロティカに、祭の「物見よりは、それをこそ人見るめりしか」。しかし二年後、敦道は享年二十七で没。わずか五年の交際だった。


誠心院(京都市中京区)

初代住職を務めたとされる和泉式部の墓所。300回忌の1313年再建という(京都市中京区・誠心院)
初代住職を務めたとされる和泉式部の墓所。300回忌の1313年再建という(京都市中京区・誠心院)
誠心院
誠心院

 外国人の観光客が目立つ新京極通。寺町通とつながる「ろっくんプラザ」(新京極六角公園)から少し下がると、小さな山門が目に入る。にぎわいの街の華やかさに埋もれ見過ごしてしまいそうなたたずまいだが、ここが、平安時代、奔放な恋で名をはせた歌人和泉式部ゆかりの誠心院。

 恋の遍歴を重ね、娘の小式部にも先立たれた後、和泉式部は念仏ざんまいの日々を送る。そして藤原道長が建立した誠心院(現在とは別の場所)の初代住職となり、念願がかなって浄土へ旅立った、と寺伝は語り継ぐ。

 山門をくぐれば、すぐに本堂。和泉式部の供養塔(墓)とされる古びた宝篋印塔(ほうきょういんとう)や歌碑が立つ境内は、近代的なビルに囲まれながらも、不思議なほどに静かだ。

 誠心院のすぐ近くに、これも秀吉の街づくりで寺町に移ってきた誓願寺がある。和泉式部は女人往生を願って、この寺に48日間参籠したと伝わる。

あらき・ひろし

荒木浩氏

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)

【2019年5月23日掲載】