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第16回 古事談 巻第二臣節第四九話

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原文は川端善明・荒木浩校注『新日本古典文学大系41』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している。

 伴大納言善男は、佐渡の国の郡司の従者であった。かの佐渡の国において、善男は夢に、西の大寺・西寺と東の大寺・東寺を跨(また)いで立っている、と見て、妻にそのことを語った。

 妻が言うには、「それではあなたの股(また)が割かれちゃうわね」と夢合わせをしたので、善男は驚いて、「つまらぬことを語ってしまったなあ」と恐ろしく思って、主人である郡司の家へ尋ねて行ったところ、郡司は、抜群の人相見であったのだが、普段はそんなこともしないのに、格別に丁重な扱いで、敷物を取り出して自ら出迎え、座敷に召し上げてくれたので、善男は不審の思いを抱き、「私をだまして家の中に昇らせて、妻が言ったように、股など裂こうというのだろうか」と懼(おそ)れ思うほどに、郡司がいうことには、「話を聞くに、おまえは、極めて勝(すぐ)れた高貴な相を表す夢を見てしまったようだ。それなのにつまらぬ人に語ってしまった。必ず高く立派な位にまでは昇り至るが、きっとその徴候によって、不慮の事件が起こって、罪を被(かぶ)ることがあろうか」などと語ったという。

 そうこうする内に、善男は、所縁ができて京都へ上り、予言通りついに大納言にまで上(のぼ)り詰めた。しかし、やはり、罪を被(かぶ)った。郡司の言葉の通りであった、という。

「伴大納言絵詞」(国文学研究資料館蔵) 出光美術館所蔵の国宝『伴大納言絵巻』の模本。応天門の変の一連を描き出す。『宇治拾遺物語』第114話に同話がある。この場面の右手に朱雀門があり、それをくぐった人々が、左手の煙の先に燃える、応天門を仰ぎ眺める
「伴大納言絵詞」(国文学研究資料館蔵) 出光美術館所蔵の国宝『伴大納言絵巻』の模本。応天門の変の一連を描き出す。『宇治拾遺物語』第114話に同話がある。この場面の右手に朱雀門があり、それをくぐった人々が、左手の煙の先に燃える、応天門を仰ぎ眺める
上記画像は国文学研究資料館のサイトで見られます。 https://www.nijl.ac.jp


吉相の夢、軽率に話し暗転



 『古事談(こじだん)』は、藤原定家と同世代で親交もあった源顕兼(あきかね)(1160~1215年)編纂(へんさん)の説話集である。平安貴族の日記や記録類など多様な文献から逸話や秘事を抜き書きして、全6巻に分類する。基本は漢文体で記されており、原文は、それを訓(よ)み下(くだ)したもの。男が観(み)た夢の寺も、原典では「西大寺」「東大寺」と書いてある。『古事談』本話を和文化した『宇治拾遺物語』第4話も同じである。善男が夢見たのは奈良だろうか。

 しかし『古事談』の出典である、院政期の碩儒(せきじゆ)(大学者)大江匡房(まさふさ)(1041~1111年)の談話録『江談抄(ごうだんしよう)』神田本は「西ノ大寺」「東ノ大寺」と誌(しる)す。古代や中世では、東寺と西寺を「東大寺」「西大寺」と表記することがあった(追塩千尋)。本話も京都が舞台だとする理解(佐伯有清)が妥当だろう。東寺と西寺は平安京の南端に在り、朱雀大路を挟んで、それぞれ東西の大宮通に接する。寺院構造も対称的で、東西に正対して屹立(きつりつ)する。善男は、東西大宮通を両足で踏み、京の中心の朱雀大路を跨いで北の大内裏を鳥瞰(ちょうかん)することになる。朝廷支配の大夢だろう。平城京の東大寺・西大寺では、このシンメトリーは発生しない。

 よく似た類話があり、理解を助ける。藤原道長の祖父師輔(もろすけ)(九条殿)の若き日に「朱雀門の前に、左右(さう)の足を西東(にしひんがし)の大宮にさしやりて、北向きにて内裏を抱(いだ)きて立てり」という夢を見た(『大鏡』)。朱雀門は朱雀大路の北端で、平安宮(大内裏)の入口だ。その先には、大内裏の中枢である八省院(はつしよういん)(朝堂院(ちようどういん))の正門、応天門(おうてんもん)があることに留意しよう。夢を語る師輔の「御前になまさかしき女房」がいて「いかに御股痛くおはしましつらん」と口を挟んだ。途端に「御夢たがひて」、子孫は栄えたが、自身は摂政・関白という出世を果たせず、孫の伊周(これちか)が大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されたりと、意想外のことも起きた。「いみじき吉相の夢も、あしざまに合はせつれば、たがふ」とは昔からの言い伝え、うかつに「心知らざらむ人の前に夢がたりな」と『大鏡』の語り手が付した教訓までが響き合う。

 『江談抄』の匡房は、伴大納言の先祖は知っているかと問いかけ、伴の氏文(うじぶみ)(系図資料)は大略覧(み)ましたと答える聡明な聞き手で筆録者の藤原実兼(さねかね)を前に、氏文とは違う話を伝承していると前置きして、この説話を語り出す。かつて大伴を名乗った名門貴族の一員が、佐渡国の郡司の従者という下層の出自だという眉唾は、卑賤者出世譚(たん)の成り上がりの夢を纏(まと)いつつ、父の国道(くにみち)(768~828年)が20年間流罪された土地であることの連想か混同だろう(益田勝実)。善男は佐渡の地を踏んでいない。国道の罪は、長岡京遷都の立役者藤原種継の暗殺事件(785年)への連座である。事件の直前に陸奥で没していた大伴家持(やかもち)が首謀だとして官位剥奪(はくだつ)、埋葬も留められた氏族存立の重大危機を越え、延暦24(805)年、恩赦で国道は都に戻る。善男(811~868年)はその後の生まれだ。淳和天皇の諱(いみな)を避けて伴(とも)氏となった直後、国道はついに参議という公卿に昇る(823年)。一方善男は、大納言となった二年後の貞観八(866)年、応天門の変の張本人だと告発される。最後まで無罪を主張するが、子や周囲の証言を固められて、罪を被(かぶ)り、伊豆配流となった。

 匡房はこの話を「祖父」挙周(たかちか)から聞いた。挙周の父大江匡衡(まさひら)は優れた学者だが、さえない容貌で背が高く、指肩(さしかた)(怒り肩)で「見苦し」い(『今昔物語集』他)。出世にも取り残されて沈淪(ちんりん)し、女房達に馬鹿にされていたが、赤染衛門に惚(ほ)れ込んで夫婦となる。「心ならず」結ばれた赤染衛門は匡衡を嫌って遠ざけていたが、夫が上国(じようこく)の尾張の守になって羽振りが良くなると、「え厭(いと)ひも果てず、挙周など生みてければ、幸ひ人(びと)といはれけり」(『古本(こほん)説話集』)。だから彼女は挙周を鍾愛(しようあい)した。任官を願う我が子を思い、彼の申文(もうしぶみ)の奥に、鷹司(たかつかさ)殿(道長の妻倫子(りんし))に宛てて和歌を添える。道長がたいそう愛(め)でて、急ぎ和泉守に任じた。赴任には赤染も同行したが、挙周は不慮の病に襲われ、危篤となる。母は歎き悲しみ、住吉明神に和歌を奉納すると、歌徳は神に通じて、病は即時快癒した(『古本説話集』他)。挙周は、和歌の言霊(ことだま)という不思議を、母の愛で身にしみて悟る。善男が見た夢の言葉を軽率に茶化す妻の愚かさを、実感をこめて孫に語ったはずだ。


西寺跡(京都市南区唐橋西寺町)

西寺講堂の土壇跡。枯れ草の中に礎石が残る(京都市南区)
西寺講堂の土壇跡。枯れ草の中に礎石が残る(京都市南区)
西寺跡
西寺跡

 弘法さんの東寺は、あまねく有名だ。ところが、同じ時期、平安京の入り口羅城門の西側に東寺と対で建立された西寺は早くに廃れ、知る人は少ない。

 東寺の南門から九条通を600メートルほど西へ。御前通と交差する辺り、この北側に東寺と相似の大伽藍(がらん)が立ち並んでいた。御前通の東、一筋手前の道を北へたどると、雑木の巨木がそびえる低い丘が見えてくる。西寺講堂の土壇跡という。大正10(1920)年に国の史跡に指定されたことを示す石碑が立ち、周囲に発掘された礎石が散見される。

 西寺跡に立ち東寺までの距離を思えば、伴善男の壮大な夢は、まるで怪獣ものの特撮のようだ。妻の強烈な下げぶりで、吉相の夢も悪夢へというわけだが、妻は子どもじみた夢ねと、茶化してみたくなったのかもしれない。

 気が付けば急な雨もやみ、礎石にかかる枯れ草が、西日を受け金色に輝いて揺れている。

あらき・ひろし

荒木浩氏

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)

【2019年1月24日掲載】