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第12回 伊勢物語 八十一段

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原文は秋山虔校注『新日本古典文学大系17』(岩波書店)より転載。原文の表記の一部を修正している。

 昔、左大臣がいらっしゃった。鴨川のほとり、六条のあたりに、邸宅をたいそう趣深く造築してお住まいなさっていた。旧暦10月の末頃、菊の花の色があせはじめる美しいさかりに、紅葉がさまざまな色合いに見える折、親王たちをお呼び集めなさって、夜一晩酒を飲んで楽しみ、音楽を奏でて過ごして、夜がだんだんと更けていくほどに、このお屋敷の風情あふれる様子を賞(ほ)める和歌を詠んだ。その場にいた乞食(こつじき)翁が、板敷(いたじき)の縁側の下に腰をかがめるようにやって来て、人々がみな和歌を詠み終わったことを確認した後に詠んだ歌。

 塩竃(しおがま)にいつやって来たことであろう。朝凪(なぎ)の海で釣りをする船はここに立ち寄ってほしい。 などと詠んだことよ。陸奥(みちのく)に行ってみると、都では想像できないほど風情のある名勝が、あちこちにたくさんあった。とりわけ、わが帝の治める日本六十余国の中に、塩竃という所ほど素晴らしい歌枕はなかったなと思う。だからこそ、あの翁は、いっそうここを賞めて、はて(都にいる私は)、塩竃にいつ来てしまったことか、と詠んだのである。

「伊勢物語絵巻」(国文学研究資料館鉄心斎文庫蔵)八十一段塩竃の場面。
「伊勢物語絵巻」(国文学研究資料館鉄心斎文庫蔵)八十一段塩竃の場面。本絵巻の巻頭に「伊勢物語第四」とあるが、一巻分のみが伝わる。江戸時代前期写。濃彩で上下に金の切箔を蒔く。嵯峨本の挿絵に基づきつつ、工夫をこらした美しい絵巻である。
上記画像は、国文学研究資料館のサイトで見られます。


伝承地点在、源融“野望”の証し?

 本舞台は河原院(かわらのいん)、「左大臣」は源融(みなもとのとおる)(822~895年)である。「河原院は融の左大臣の家なり」(『宇治拾遺物語』)。当時の人には自明のことだ。六条坊門(現在の五条通)よりは北、万里小路よりは東、鴨河原よりは西に拡(ひろ)がる四町四方の豪邸(鎌倉初期の顕昭『古今集注』)で、陸奥の歌枕の塩竃の浦、浮島(うきしま)、籬(まがき)の島を模し(平安時代の『安法(あんぽう)法師集』)、池に「潮ノ水ヲ湛(たた)ヘ汲ミ入レ」(『今昔物語集』)、「塩を焼かせ」(『宇治拾遺』)る風流を尽くした。紀貫之は「君まさで煙(けぶり)絶えにし塩竃(しほがま)の…」(『古今集』哀傷)と融の死を悼む。

 「塩竃に…」の和歌を詠んだ翁は、在原業平(825~880年)である。『業平集』にも載る歌だ。融が左大臣に昇った貞観14(872)年、業平は数えで48歳。享年も56だが、『伊勢物語』はいくどか業平に相当する男を「翁」と呼ぶ。だがここは卑屈に板敷の下を這い回る「かたゐおきな」で、滑稽なほどの蔑称だ。韜晦の自称かとも疑われる。融と業平の立場の対極をかくも強調演出する本段は、『伊勢物語』の成立を考える上でも重要である。

 融の父、嵯峨天皇の後宮(こうきゆう)は、皇后以下29人。23人の皇子と27人の皇女が出来て財政逼迫(ひっぱく)し、皇子17人、皇女15人が臣籍降下する。融もその一人。賜姓(しせい)源氏の濫觴(らんしょう)だ。ちなみに光源氏も賜姓源氏、業平も皇孫の臣籍降下で祖父は嵯峨の兄平城天皇だ。

 先例を知らぬ賜姓源氏の融には、地位への不満が渦巻く。十代の帝王陽成の不行跡が咎(とが)められ退位に追い込まれる陣定(じんのさだめ)で、即位の「御心ふかく」秘めていた融は「いかがは。ちかき皇胤(こういん)をたづねば、融らもはべるは」と申し出た。太政大臣藤原基経(もとつね)は「皇胤なれど、姓給はりてただ人にてつかへて、位につきたる例やある」、賜姓の臣下が即位した例などないと一刀両断。融の8歳年下で五十半ばと高齢の光孝天皇が擁立された(884年)。次代はその子宇多天皇(887年即位)だが、十代の宇多も賜姓源氏で源定省(みなもとのさだみ)となり、殿上人として陽成天皇の「神社行幸には舞人など」していた。陽成院は宇多天皇の行幸を観(み)て「当代は家人(けにん)にはあらずや」と吐(は)き捨てる(『大鏡』)。左大臣の融はどう思っただろう。

 融の没後、河原院は宇多の所有となる。次男の大納言源昇(みなもとののぼる)が献じたという。それは融の宿恨(しゅっこん)を爆発させた。延長4(926)年6月25日、融の霊が女官に憑(つ)いて、堕地獄の苦を訴え、昔の愛執で時折この河原院を訪れて休息するばかりだと救済を求めた。翌月4日、宇多院は布施を捧(ささ)げ、融供養の法会を行う(『本朝文粋(ほんちようもんずい)』)。説話では話が膨らむ。宇多院が河原院に住んでいた頃、融の霊が出現し、私の家だと主張。宇多は、子孫の譲りを受けている。押し取ったものではない。礼儀知らずめと一喝し、融は瞬時に姿を消した(『今昔』『宇治拾遺』)。霊は、宇多法皇が京極御息所と河原院で房事に及んだ時に出た、ともいう。融は一喝にひるまず法皇の腰を抱く。御息所は気絶。法皇は、我は前世の行業で日本の王となった。退位後も神祇が守護しておるわと説破し、霊を追い払った(『江談抄(ごうだんしよう)』他)と。能の『融』の淵源だ。『源氏物語』の注釈書『河海抄(かかいしよう)』では、霊が抱くのは御息所の腰となり、「なにがしの院」で夕顔を襲う物の怪(け)と夕顔の死になぞらえる。また別名東六条院の河原院は、光源氏の豪邸六条院にも投影され、六条(の)院は彼の通称となる。

 融は宇治に「別業」が有った。道長が宇多の孫源重信の未亡人から買い取り、平等院の前身となる宇治殿(うじどの)は、融のこの別荘だという。『源氏物語』椎本(しいがもと)で、匂宮(におうみや)は初瀬参りに託(かこつ)けて宇治に寄り、「六条の院」光源氏から夕霧が伝来した別荘に泊まる。姫君達の八の宮邸とは対岸の風雅なその邸(やしき)は、宇治殿に比定される(一条兼良(いちじようかねら)『花鳥余情(かちようよせい)』)。融は嵯峨にも棲霞観(せいかかん)という別荘を持つ。清凉寺の起源となるここも、光源氏のゆかりである。

 五条大橋西詰南の榎のもとに「源融河原院址」の石碑が建つ。近辺には庭園遺構の発掘もあった。岩崎均史は塩竈町の本覚寺に着目。周囲には塩小路、塩屋など、塩にまつわる地名がある。塩竈山(えんそうざん)上徳寺も河原院跡と伝える。伝承地の点在は広大さの傍証だ。


河原院跡 (京都市下京区)

オオエノキの下に「河原院」をしのぶ碑がある(京都市下京区五条通木屋町下ル)
オオエノキの下に「河原院」をしのぶ碑がある(京都市下京区五条通木屋町下ル)
源融河原町院跡(木屋町五条下ル)地図
源融河原町院跡(木屋町五条下ル)地図

 源融(みなもとのとおる)の邸宅「河原院」は、その広さを4町(1町は約120メートル四方)とも8町ともいい、壮大な邸内に鴨川の流れを引き入れ、陸奥の塩竈(しおがま)の浦、松島の絶景を庭園として再現したという。

 千年余を経て今、その庭園の名残をとどめるのが、河原町五条西側の本(もと)塩竈町と塩竈町の町名。五条通南側の本塩竈町は、民家やビルの中に寺が点在する。富小路通五条の南西の上徳寺は、塩竈(えんそう)山を山号に持ち、その東向かいの本覚寺は源融の座像を安置するなど、河原院とのかかわりを示す。

 五条通に出て東へ。木屋町通、高瀬川に至ると、二股になった苔(こけ)むす榎の巨木がそびえ、根元に「此付近源融河原院祉」の碑がある。塩竈の浦に浮かぶ曲木(まがき)島を模して河原院の庭に作られた籬島の跡かと言われ、大榎は河原院が荒廃し、島が森に変じて後も生え残った1本と伝わる。

あらき・ひろし

荒木浩氏

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)

【2018年9月27日掲載】