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◆残る聚楽第の堀跡
秀吉が大内裏跡に建設した居館が「聚楽第(じゅらくだい)」。一五九〇年、天下を統一した秀吉は翌年、関白職とともに聚楽第をおいの秀次に譲ったが、九五年、謀反(むほん)の疑いで秀次は切腹、聚楽第は直ちに破壊された。
華麗を誇った聚楽第をしのばせる遺構はほとんどないが、上京区の松林寺は周囲と比べて少し下がった土地に立っており、聚楽第の南堀の跡とされる。七百メートル北には、マンションや民家の裏側に石垣があるが、実は北堀の石垣に当たる。歩いてみると、聚楽第の大体の規模が分かるよ。 |
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民家の裏にある聚楽第の石垣。当時の石ではないとされるが、当時の雰囲気が味わえる。 | |
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史跡公園になっている大仏殿跡 | |
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◆京の大仏さん
大仏と言えば奈良・東大寺が有名だが、秀吉は京にも大仏を造った。方広寺大仏殿だ。現在の京都国立博物館北側に、大仏殿跡の史跡公園がある。直径二メートルもの柱跡や八角形の大仏台座跡が復元され、世界最大級の木造建築だった大仏殿の威容をしのばせる。
大仏殿は完成の直前、一五九六年の大地震で崩壊。秀吉の子、秀頼が再建に着手したが、火災や落雷で二度焼失し、一九七三年まであった半身の木造大仏と仮堂も焼けてしまった。
京都市文化財保護課の梶川敏夫課長補佐は、「地震、雷、火事、おやじ−方広寺はあらゆる災害を被った」と話す。
「おやじ」とは徳川家康のこと。秀頼の大仏殿再建に伴い完成した鐘の「国家安康 君臣豊楽」の銘文に家康が「家康の文字を分断している」と因縁をつけ、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼしてしまった。その鐘は豊国神社北側にある。問題の銘文は鐘の上部に白く囲まれている。 |
◆京を改造、京に眠る
土木工事の好きな秀吉は、京都の大改造を行った。洛中の防衛と洪水防止のため、鴨川と紙屋川の間を約二十二キロの土塁で囲んだ。今では市内九カ所が国の史跡として保存されている。
その秀吉は、東山の阿弥陀ケ峰山頂の墓に眠る。家康により破壊されたが、明治に復興された。五百段を超える階段を上ると、十メートルもの巨大な五輪塔がそびえ立つ。京を改造し、京に眠る太閤さん。京都への思いは強かったのだろうね。
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「国家安康 君臣豊楽」の因縁の銘文(鐘の左上)が刻まれた方広寺の鐘 | |
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阿弥陀ケ峰山頂にある秀吉の墓「豊国廟」 | |
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《メモ》豊国神社の西には「耳塚」がある。秀吉の朝鮮出兵の際、兵士らが削いで持ち帰った耳と鼻を供養した五輪塔。似た名前だが、同神社宝物館の東側には「馬塚」がある。家康が阿弥陀ケ峰の墓を壊したあと代わりに建立した。 |
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