京都新聞TOP > 夢幻軌道を歩く
インデックス

(36)稲荷山鋼索鉄道(京都市)

徒歩での巡拝こそ信仰
稲荷山鋼索鉄道が提出した路線図。用紙左側の伏見稲荷大社本殿付近から同右側の山頂までの予定図が描かれている(国立公文書館蔵)=画像の明るさを修正しています
稲荷山鋼索鉄道が提出した路線図。用紙左側の伏見稲荷大社本殿付近から同右側の山頂までの予定図が描かれている(国立公文書館蔵)=画像の明るさを修正しています

 京都市伏見区の伏見稲荷大社東側にある稲荷山に大正時代、ケーブルカーを敷設する計画があった。稲荷山独特の信仰や風致上の懸念から計画は実現しなかった。麓の本殿から標高233メートルの稲荷山山頂に登り、敷設予定地をたどった。

 ケーブルカーは稲荷山鋼索鉄道という会社が計画したもので、本殿東側から稲荷山の山頂にある一ノ峰までの約1・1キロ。まずは国内外の参拝者でひしめき合う本殿の脇をすり抜け千本鳥居の方向へ向かう。

 稲荷山鋼索鉄道が国や京都府に提出した図面によると、現在の本殿近くに麓の駅を設ける予定だったらしい。境内を予定地にするということは、当時の伏見稲荷大社は計画に関与していたのだろうか。大社は「公式の年表に記載がなく、神社は関わっていなかったのではないか」と話す。

麓の駅が置かれる予定だった本殿付近。千本鳥居の入り口に隣接しており、国内外の参拝者がひしめき合っていた(京都市伏見区・伏見稲荷大社)
麓の駅が置かれる予定だった本殿付近。千本鳥居の入り口に隣接しており、国内外の参拝者がひしめき合っていた(京都市伏見区・伏見稲荷大社)

 千本鳥居を抜けて、山頂方面を目指す。日本人だけでなく外国人も多く、みな汗だくだ。麓の駅予定地から約30分で見晴らしのいい「四ツ辻」に着いた。京都市の南西部が一望でき、多くの人が休憩したり、記念撮影したりしている。

 山頂までケーブルカーを敷設するには多量の資材を運び上げなくてはならない。大正時代にはヘリコプターが普及していないことを考えると、人力で資材を運ぶつもりだったのだろうか。その苦労は想像を絶する。

 四ツ辻から先になると、歩く人がぐっと減る。三ノ峰を経て二ノ峰に到着した。いずれも神蹟(しんせき)と呼ばれる社があり、その周囲には「お塚」と呼ばれる信者が奉納した石碑が林立しており、信仰のあつさを物語る。

 大正時代の日本は急速な都市化、工業化が進んでいた。六大都市の一つだった京都も例外ではなく乱雑な開発が進んでいた。国は1919(大正8)年、都市計画法を制定した。その中には現在の景観行政の先駆けとも言える、風致地区や美観地区の規定も含まれていた。

 稲荷山鋼索鉄道が出願されたのは21年。この時代、東山連峰に鋼索鉄道を敷設しようとするのは一種のブームだったようで、稲荷山でも前年に別の「稲荷山鋼索電気鉄道」という会社がケーブルカー敷設計画を出願している。現在の叡山ケーブル(ケーブル八瀬―ケーブル比叡)にあたる区間も同時期に出願され、25年に開業。27年には「日出新聞」1面で東山にケーブルカーやエレベーターを設置すべきとの意見が紹介され、景観上の問題などから紙上論争となった。

 稲荷山のケーブルカー敷設計画は順調にはいかなかった。国の照会を受けた京都府は計画に反対の意向を示す。ケーブルカーは稲荷山の風致上良くない上に、山内に点在するお塚を歩いて巡拝するのが信仰であるため乗客が見込めないという理由だった。そして26年に却下された。

 麓から約45分。山頂の一ノ峰に来た。一ノ峰にも高さ50センチから1メートルほどの無数のお塚があり、独特の宗教的雰囲気を漂わせている。麓から乗り物で楽に到達できるとなると、この雰囲気は維持できなかっただろう。大正期の府職員の判断に敬意を表したい。

山頂にある一ノ峰の社。この付近に頂上側の駅が置かれる予定だった
山頂にある一ノ峰の社。この付近に頂上側の駅が置かれる予定だった
四ツ辻から見た京都市内。ケーブルカーが開通していればこうした光景が手軽に眺められたのかもしれない
四ツ辻から見た京都市内。ケーブルカーが開通していればこうした光景が手軽に眺められたのかもしれない

稲荷山鋼索鉄道

稲荷山鋼索鉄道
 本社は京都府深草村(現京都市伏見区)に置く予定だった。同社の定款には「土地家屋賃貸借および娯楽機関の経営」とあり、麓での宅地開発や遊園地などの経営を考えていたようだ。出願者の中には、京阪電鉄の幹部で同社の拡大路線を推し進めた太田光凞の名前もあり、京阪との連携もあり得たのかもしれない。

【2019年06月14日掲載】