京都新聞TOP > 夢幻軌道を歩く
インデックス

(5)京阪六地蔵線(京都市伏見、山科区、大津市)

名古屋を目指す気分で
京阪が京都府庁に提出した六地蔵線の図面。山科区音羽で旧奈良街道と立体交差する地点を描いている(京都府立総合資料館所蔵)
京阪が京都府庁に提出した六地蔵線の図面。山科区音羽で旧奈良街道と立体交差する地点を描いている(京都府立総合資料館所蔵)

 好景気に沸いた1920年代、京都市東部の山科盆地を走り抜ける京阪六地蔵線の建設計画があった。鉄道は大津を経て、さらに名古屋に達するという壮大な夢の始まりだった。しかし、ニューヨークに端を発した世界恐慌が日本経済にも及ぶ。資金が集まらず白紙に至った。そんな路線の予定地を歩き、当時の人びとの息づかいを感じた。

醍醐寺総門に続く道と交差する新奈良街道の陸橋。橋の上に「醍醐」駅が置かれる予定だった(京都市伏見区醍醐)
醍醐寺総門に続く道と交差する新奈良街道の陸橋。橋の上に「醍醐」駅が置かれる予定だった(京都市伏見区醍醐)

 27年、六地蔵駅(伏見区)から膳所駅(大津市)付近までを結ぶ新線計画が動きだした。京阪が立案した六地蔵線だ。山科区大宅では新京阪山科線と合流するはずだった。

 六地蔵線のルートを分析した京都府立総合資料館の研究者若林正博さん(47)と一緒に予定地を訪ねた。「路線予定地は新奈良街道の一部と一致します」と若林さん。戦後、買収済みの土地が道路に転用されたらしい。幻の路線上を約2キロ歩けるといい、歴史を感じた。

 伏見区石田の合場橋に来た。ここからが予定地上の道路だ。名古屋行き電車に乗った気分で、「いざ、出発進行」だ。新奈良街道の道幅は10メートル以上ある。2車線に加え両側にプラタナス並木の歩道も備え、ゆったりとした構造だ。カーブも少なくまっすぐ北へと延びてゆく。名阪間を結ぶ幹線鉄道には十分な規格だ。

 「新奈良街道」の名前の通り、江戸以前からの「奈良街道」も近くに存在する。旧道は新道とは対照的に車1台分ほどの幅しかない。左右にくねくね進む。

 路線予定地の道は醍醐寺近くまで来ると、登りがきつくなる。

 もし開通していたならば電車はうなりを上げて、坂を登っていたに違いない。頂上部が六地蔵線最初の駅「醍醐」だ。西国札所へ向かう巡礼姿の乗降客が見えそう。現在の道路では歩道部分が車道より一段高く、まるでホームのようだ。

 大正末期から昭和初期にかけて、大阪と京都、宇治を結んでいた京阪電鉄は拡張期を迎え、京阪は京都市街に隣接する山科や大津進出を企図。その時代に六地蔵線の構想が浮上する。

 当時、鉄道会社は比較的安全な投資先とされ、資金は潤沢に集まった。一種の鉄道バブルだった。現在の京津線や石山坂本線を買収などで手中に収め、中京地方への鉄道建設も見据えていたが、長引く不況で資金のめどが立たなくなり、37年に六地蔵線も計画廃止となった。現在、六地蔵線予定地をたどれる場所は、伏見区と山科区の境界付近までとなった。新奈良街道は延びていくが、路線から外れてしまう。

 六地蔵線を訪ねる旅を始めて2時間。やっとの思いで名神高速道路に達し、高架下をくぐると、山科駅予定地(山科区大宅)にたどり着いた。ここから12キロ離れた西向日駅(向日市)から伸びてくる山科線と合流する予定だった。

 「目的地に着きました」と若林さん。赤い車体の京阪バスが30台近くズラリと並ぶ。山科営業所だ。六地蔵線が開通し、駅が完成していたら、電車が並んでいたのだろう。京阪カラーの「名古屋行き」特急電車に乗ってみたかった。

現在では、ずらりとバスが並ぶ「山科駅」の予定地(京都市山科区大宅)
現在では、ずらりとバスが並ぶ「山科駅」の予定地(京都市山科区大宅)
現在では京阪バスの営業所になっている山科駅予定地(京都市山科区大宅)
現在では京阪バスの営業所になっている山科駅予定地(京都市山科区大宅)

京阪電鉄六地蔵線

京阪電鉄六地蔵線

 京阪六地蔵駅から京阪膳所駅までの約14キロを結ぶ予定だった計画線。1927(昭和2)年に敷設が許可されたが、37(同12)年に計画が廃止となった。現在は伏見区石田の合場橋から伏見・山科両区の区境付近までの路線予定地を新奈良街道として道路に転用している。京阪バスは旧道の奈良街道を通るが、かつての六地蔵線のルートに沿って運行している部分もある。予定地上の新奈良街道にあるバス停は「醍醐北団地」や「醍醐新町」など、ごくわずかしかない。

【2016年08月25日掲載】