ソフィア 京都新聞文化会議 京都新聞電子版へ

芳賀徹氏 古典を抱き、古典に抱かれ

芳賀徹氏 はが・とおる 1931年生まれ。国際日本文化研究センター教授、京都造形芸術大学長などを歴任。2018年に日本芸術院賞恩賜賞。著書に「文明としての徳川日本」(筑摩選書)など多数。


 「源氏物語」が書かれて千年を祝って、京都で式典や国際シンポジウムが数日間にわたって催されたのは二〇〇八年秋、十年前のことだった。天皇皇后両陛下もご臨席くださったあの行事を一回だけで終わらせるのはもったいないと、十一月一日を今後は「古典の日」として国の記念日にする運動がすぐにつづいた。それは意外に早く国会の議員立法で成立して今日にいたる。
 私はこの一連の動きに終始かかわってきて、式典の「古典の日宣言」の起草にもたずさわった。その中の一節「私たちは古典を抱(いだ)き古典に学び…」の意味を何日目かのシンポジウムで論じたとき、その日はフロアにおられたいまは亡き秋山虔先生、「源氏物語」研究の第一人者が手をあげて発言なさった。「私たちは古典に抱かれてもいるのですよ」と。
 これこそ古典的な名言であった。私たちは「万葉集」や「古今」「新古今」を、「枕草子」「奥の細道」を学校で習う。いくらかは自分でも読んでみる。そして「古典を抱いた」つもりでいる。だがしばらくしてまたゆっくりと読み直してみると、気がつくのだ。なあんだ私たちは実はこれらの古典に文字どおり「抱かれていた」のだ。まだ読んだことのない「徒然草」や謡曲や漱石、茂吉にまで抱かれて、彼らの伝える思想や感受性のゆたかさの中に、それとも知らずに養われていたのだ、と。
 その自覚を確かなものとするためにも、私たちはさらに古典の文学また美術に触れなければならない。私はパリに「哲学カフェ」があったのを思いだし、京都では「街かど古典カフェ」を始めることを提案した。その道に詳しい研究者に頼んで、市内のカフェの一隅で連続何回かの市民セミナーを開くのだ。私自身、さっそく虎屋さんの教室で「奥の細道」を語り、下鴨茶寮の座敷では蕪村と伊藤若冲を論じたりもした。
 この夏七月には下鴨神社境内のホールで、五回連続で明治維新一五〇年にちなんで「近代古典にたどる幕末維新」の購読を行った。杉田玄白の「蘭学事始」から渡辺崋山、福沢諭吉、明治四-六年の岩倉使節団の報告書「特命全権大使米欧回覧実記」まで日本の西洋研究(洋学)史上の古典を抜き刷りで読み、その間に幕末の桂川家の一人娘今泉みねさんのなんとも美しい回想記「名ごりの夢」も入れた。
 八十人ほどの紳士淑女の参加者とともに私も、詩歌や小説とは違うこれらの硬派の文章もまた卓抜な古典であることを実感した。これらの古典も私たちを抱き、支えていてくれることをあらためて強く頼もしく感じとったのである。

(比較文学者)

[京都新聞 2018年09月21日掲載]