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深見茂氏 文化過剰の京都での生き方
ふかみ・しげる 1934年、京都市生まれ。大阪大大学院修士課程修了。大阪市立大・滋賀県立大名誉教授。博士(文学)。ドイツ文学専攻。96年から現職。

 京都人については古くからその評判はおおむね芳しくありません。韜晦(とうかい)的、慇懃(いんぎん)無礼、面従腹背、ダブルスタンス等々があげつらわれます。以下はこのテーマについての私なりの一つの見解であります。
 もう亡くなりましたが、第2次世界大戦後から最近まで活躍していたドイツ語作家に、ヴォルフガング・ヒルデスハイマーという人物がおりました。ユダヤ系で、国籍はアメリカでした。
 さて、この人は近代から20世紀にかけての西洋を指して「文化過剰のヨーロッパ」と定義し、そのような世界に生まれおちた現代知識人にとっては、もはや三種の生き方しかない、と申します。その一つは、有り余る文化財をペーロペーロと嘗(な)めまわし愛玩しつつ生涯を送る道です。学者や大学教授などといった人種でしょう。
 次は、有り余る文化財を前に、もはやなすべき新しい創造も、考えるべき発想も皆無なわけですから、いっそ何もせず、毎日ベッドで寝言しながら昼寝を貪(むさぼ)りゴロゴロと無為倦怠(けんたい)のうちに生涯を送る道です。室町筋の三代目の旦那(だんな)衆に多いタイプではないでしょうか。
 そして最後の一つ、それは乾坤一擲(けんこんいってき)、その有り余る文化財をガシャーンと粉砕し去り、その瓦礫(がれき)の上に立った時、なんらかの新しい展望が開けることを期待するという生き方であります。これは古くは偶像破壊運動、近くは金閣寺炎上、文化大革命、全共闘運動、最近ではタリバンの仏像破壊等、文化の古い地域に目をやるならば次々と思い浮かびます。
 ここまでお話ししてくれば、もうご推測いただけましょう。「文化過剰の京都」、そこに生み落とされた京都人、の類推から、私はこの発想を京都の地に移し、京都人にあてはめて考えてきたわけであります。そして、今述べた三種の生き方の一つを選んで生きるのではなく、一個の人格の中に同時に併存させて生きているのが京都人ではないか、と現在では思っております。
 この相矛盾しながら整合し合う、ペーロペーロとゴロゴロとガシャーンとを共に内包し、年齢により、育ちにより、気分により、性格により、そのどれかが、時に突出したり、暴走したりしつつ現れ出、時に委縮(いしゅく)したり、隠蔽(ぺい)されたりしつつ消滅するような多重人格人間を相手にしては、他郷の人々のひんしゅくを買い理解不可能との印象を残すのは当然でしょうが、これこそ京都人という末裔(まつえい)人種の特権でもあるのです。
(祇園祭山鉾連合会理事長)

[京都新聞 2010年01月31日掲載]