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倉地克直氏 江戸期の復興も頼みは地域

倉地克直氏 くらち・かつなお 1949年生まれ。京都大で朝尾直弘氏に師事。専門は日本近世史。内閣府「宝永地震の災害教訓に関する検討会」委員を務める。著書に「江戸の災害史」(中公新書)など。


 熊本地震から7カ月、鳥取中部地震からは1カ月近くがたとうとしている。いずれも余震が続き、被災地はいまだに落ち着かないことだろう。今年も災害報道が絶えることはなかった。熊本地震が起きたときに、すぐに400年前に九州地方で起きた2つの地震を思い出した。
 一つは元和5(1619)年の八代地震。日奈久断層帯の一部が動いた可能性があり、M6・0と推定されている。小西行長が造った麦島城が崩壊し、豊後岡城(大分県竹田市)でも城郭が破損したという。八代城が現在地にあらためて建設された。
 もう一つは文禄5(1596)年の別府湾地震。別府湾南岸の別府・万年山断層帯の一部が震源と推測され、M7・0。この地震では津波が発生し、いまの別府市南部の村々が水没したという。この地震は閏7月9日に起きたという説と閏7月12日に起きたという説があったが、最近では9日と12日の2回起きたのではないかという新しい説が出されていた。とすれば、今回の熊本地震と同じように大きな地震が2度起きたのかもしれない。同じ閏7月12日には豊臣秀吉の造った伏見城が倒壊した伏見地震が起きていて、連動した可能性が以前から指摘されている。
 この二つの歴史地震から、地震が連動する状況や被害の少ないところを選んで再建が行われたことなどを参考にすることができるだろう。
 熊本といえば寛政4(1792)年に起きた有明海津波も思い出される。島原半島の雲仙普賢岳の噴火とその地震によって島原城下町背後の前山が崩落し、海中に流入した土砂によって津波が引き起こされた。
 これによって熊本藩では耕地の3分の2が被害を受け、5千人近くが亡くなった。災害復旧には膨大な資金が必要だ。しかし財政窮乏が続いていた熊本藩には余力がない。幕府からの拝借金や大坂商人からの借入金でも足りない。
 最後に頼りになるのは地元の力である。復興の中心を担ったのは「在御家人」と呼ばれた有力農民であった。かれらが資金を拠出し復興事業を起こし、さらには新田開発や産業の育成を行った。犠牲者の供養碑を建て、教訓を伝える石塔を建てたのもかれらであった。
 いまでも、減災や防災、復興の力になるのは、地域である。そのために日ごろから地域の結びつきや力量を高めるための取り組み、復興を地域が主体的に担えるシステム作りなどが求められる。災害の歴史から考えられることは少なくないはずだ。

(岡山大名誉教授)

[京都新聞 2016年11月18日掲載]