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植木朝子氏 道長の周囲で輝く女房たち

植木朝子氏 うえき・ともこ 1967年生まれ。専門は今様など中世歌謡。主著に「梁塵秘抄の世界」(角川選書)など多数。2014年から祇園甲部の舞踊公演「都をどり」の作詞担当。17年度から副学長。


 本年は、藤原道長が「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ年からちょうど千年である。
 寛仁2(1018)年10月16日、道長の娘の威子は後一条天皇の皇后になった。これにより道長の3人の娘(彰子、妍子(けんし)、威子)が3人の天皇(一条、三条、後一条)の后(きさき)となる。この和歌は、藤原実資の日記『小右記』同日条に見える。
 実資が「一家立三后、未曽有」と記すように、道長の栄華は、3人の娘たちによってもたらされたが、后たちを支え、ひいては時の最高権力者道長の戦略に貢献したのが后付きの女房集団であった。
 后に必要とされた能力のうち、ここでは二つを取り上げてみよう。一つは漢学の素養である。『源氏物語』紅葉賀巻には、青海波(せいがいは)(唐渡来の曲)の由来にふれた立后前の藤壺の和歌が見えるが、光源氏は、唐のことにまでふれるのは、今から后の風格があると感動する。
 后とは、一般に男性のものとされる漢学の知識をも持っているべきだったのである。
 彰子に仕えた紫式部は漢学にすぐれ、彰子の希望に応じて『白氏文集』をひそかに教えていた。道長はこれを知り、漢籍を与えるなどの援助をした。当時の先進国である唐の文化を学ぶことは彰子サロンのイメージアップにもつながったからである。
 后に必要なもう一つの能力は社交であるが、当時の宮廷生活の社交の基本は和歌であり、当意即妙なやりとりが必須であった。
 彰子に仕えた和泉式部は、恋多き女として知られ、道長は、たまたま見つけた和泉式部の扇に「浮かれ女の扇」と書いてからかった。和泉式部は「越えもせむ越さずもあらむ逢坂の関守ならぬ人な咎(とが)めそ」と和歌を書きつけ、人の恋に口出しする立場でもないお方は黙っていらっしゃいな、と切り返す。
 百人一首で有名な「いにしへの奈良の都の八重桜今日九重に匂(にほ)ひぬるかな」は、興福寺からの八重桜献上に際し、その取り入れ役を紫式部から譲られた新参の女房伊勢大輔が、道長から促され、即座に詠んだものだ。「いにしへ」と「今日」、「八重」と「九重」の対照が巧みな一首で、人々は大いに感嘆したという。
 こうした歌才のある女房は宮廷サロンの評判を高める貴重な存在であった。
 道長が娘の教育係として厳選した女房たちは、権力者の期待に応える一方、その財力の恩恵を受け、才能の発表の場を得て輝いていた。圧倒的な男性優位の社会においても個性を発揮しながらしたたかに活躍したのである。

(同志社大教授)

[京都新聞 2018年06月22日掲載]