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史跡長岡宮跡・長岡京跡(向日市、長岡京市、大山崎町、京都市) 

幻の都、発掘で存在判明

 千年の都、京都の基礎が平安京にあることは良く知られていますが、平安京の前の都、長岡京については、どのくらい知られているでしょうか。

朝堂西第三堂の検出状況(東から)。円形の穴に石を詰めた礎石の根石が整然と並んで検出された(1964年7月、京都府教育委員会撮影)
朝堂西第三堂の検出状況(東から)。円形の穴に石を詰めた礎石の根石が整然と並んで検出された(1964年7月、京都府教育委員会撮影)

 長岡京は、桓武天皇によって延暦3(784)年から延暦13(794)年まで営まれた都でした。ところが、歴史書には記載があるものの、存在期間が短いために長らく未完成のまま終わった幻の都だと考えられてきました。

 こうした通説は、故中山修一氏らの精力的な研究によって大きく変わりました。中山氏は高校や大学教師として勤務しながら長岡京の研究に打ち込み、私財を投じて昭和29(1954)年から発掘調査を開始し、翌年にはついに長岡京の中心部にあたる朝堂院南門を発見しました。この発見は、長岡京の存在を証明した記念すべき調査です。長岡京跡は、その後の調査によって、天皇の住まいや儀式の場である内裏、大極殿、朝堂院、役所などが立ち並ぶ宮域と、貴族や役人などの住む京域からなることが明らかになりました。宮域は向日市に所在し、京域は向日市、長岡京市、大山崎町、京都市にかけての広範囲に及びます。宮域中心部の建物は、瓦まで含めた建築資材のほとんどを難波宮から再利用することで、『続日本紀』に記載された約半年間という短期間での遷都を可能にしました。このように、長岡京は幻の都ではなく、整備された本格的な都であったことが発掘調査によって判明したのです。

長岡京の復元図(北から)。丘陵を巧みに利用しつつ、河川交通も生かした本格的な都であった(向日市埋蔵文化財センター提供)
長岡京の復元図(北から)。丘陵を巧みに利用しつつ、河川交通も生かした本格的な都であった(向日市埋蔵文化財センター提供)

 中山氏らの調査以降、元々農村地帯であった長岡京跡は、高度経済成長期に入るとともに急速に開発されていきました。特に長岡宮跡の周辺は阪急西向日駅に近いこともあり、早くから宅地化が進みました。これに対して、特に重要な宮跡の発掘調査と公有地化をまず京都府が進めていきました。そして、宮跡を守ろうという地元住民や関係機関の熱意と努力によって、内裏、大極殿、朝堂院、役所の築地塀跡の一部が国の史跡に指定され、保存整備されることとなったのです。昭和59(1984)年には、長岡京跡をはじめとする府内の埋蔵文化財の調査や研究の拠点である京都府埋蔵文化財調査研究センターの本部が向日市に置かれました。また、向日市、長岡京市、大山崎町も順次文化財専門の担当者を採用して、長岡京跡の保存に力を注ぐようになりました。現在では、京都府、京都府埋蔵文化財調査研究センター、京都市を含む3市1町で長岡京連絡協議会を組織して、調査や研究成果などの情報共有をしつつ発掘調査を進めています。その結果、長岡京跡の発掘調査回数はこれまでに合計2100回以上に及び、他の古代の都と比較して最多の回数となっています。それだけ長岡京跡の内容が明らかになると同時に、開発が盛んであることも忘れてはいけないでしょう。

長岡宮ARの表示状況。大極殿公園でアプリを起動すると復元された大極殿が表示される(同市教育委員会提供)
長岡宮ARの表示状況。大極殿公園でアプリを起動すると復元された大極殿が表示される(同市教育委員会提供)

長岡京跡
長岡京跡

 これまでに京域から出土した主な遺物は、向日市文化資料館、長岡京市埋蔵文化財センターなどで見ることができます。長岡宮跡の史跡公園は向日市が現在も整備を進めており、現地では案内人による詳しい解説を聞くことができます。さらに、スマートフォンなどのアプリ「AR長岡宮」を用いれば、史跡公園内で端末をかざすと画面上に復元された長岡宮の建物が表示されるなど、最新の技術で長岡宮を体感することもできます。端末は朝堂院公園案内所で借りることもできますので、ぜひ実際に史跡公園を訪れて現代によみがえった都を体験してみてください。このように史跡長岡宮跡は、保存と活用が両立している好例と言えるでしょう。
(京都府教委文化財保護課記念物担当 中居和志)

【2017年5月17日付京都新聞夕刊掲載】