京都新聞TOP >軍学共同の道
インデックス

(12) 「学問のため」帝国と同化 <京大が持ち去った人骨>

帝国の骨

京大保有のアイヌ・琉球人骨リスト
京大保有のアイヌ・琉球人骨リスト

 京都大は、戦前から収集してきた人骨標本について、存否を含め一切の回答を拒んでいる。樺太、沖縄、朝鮮半島、旧満州(中国東北部)と、帝国日本の版図をアジアに拡大するにつれ、京都帝国大が持ち去った人骨。いま、アイヌの人たちや沖縄の人たちから、返還を求める声がある。どのように京大が人骨を持ち去ったのか。「発掘」した京大医学部の医学者2人のルポから関連記述を抜き出し、検証する。

 日本が明治時代以降、海外領土をアジアや太平洋の島々に拡大するにつれて、その地に暮らすさまざまな民族と出会い、「日本人とは何か」「原住民とはなにか」が問われるようになった。そこで科学的に、日本人の起源、日本人が国境を拡張しそこに暮らす理由として、学知が動員された。

 京都帝大病理学教室の教授だった清野謙次はアイヌ民族(清野は大正期、「アイノ」と表記している)の遺骨を日本領だった南樺太(サハリン)や、北海道のオホーツク海沿岸で集めた。人類学でも戦前、高名な論客だった。

 金関丈夫は京都帝大医学部助教授時代の昭和4(1929)年、沖縄を訪問。台北帝国大(後の台湾大)医学部教授や九州大教授を歴任。台湾や沖縄の文化をフィールドとした人類学者として有名だ。

 現在の京大は収集人骨について説明を拒否しているが、清野、金関とも発掘日記を直後に雑誌などで発表している。風習の違いが珍しかったこともあり、ルポルタージュとして読者の関心を集めたのかもしれない。明治にできた刑法で墓所を荒らすことは犯罪だが、沖縄や樺太で、現地の人の墓地から人骨を収集した経過を、詳細に描き残している。

 今の京大は存在を明らかにしないものの、日記からは、那覇市で、路上で行き倒れた人の墓地から遺体を収集したことが浮き彫りになっている。

 また2人とも、アイヌ民族や琉球文化が死者の尊厳を乱すことに強いタブーを持っていること、墓地を荒らすことが現地で非難されることを十分に認識している記述がある。特に清野は、戦前に書いた譲渡経緯が虚偽で、本当は自ら人骨を掘ったと、戦後に明かしている。

 学問のためなら、それでも収集していいと考えていたなら、それは植民地主義との批判を免れない。

 表1で示したのは、文部科学省が調査を指示し、京大が2012年12月にまとめた「アイヌ人骨保管状況等ワーキング報告書」掲載の調査票から。計94体。ただし京大は16年に同省が回答を求めた再調査に対し、保管する遺体は87体と、前回から数字を修正している。

 表2は、情報公開や戦前の京大医学部論文などから明らかになった京大が番号を付してきた収集遺骨。現存しているかどうか大学側は明らかにしていない。

 表3は、金関が収集した「琉球人骨」リストについて、今帰仁村(なきじんそん)教育委員会「百按司(ももじゃな)墓木棺修理報告書」(2004年)を引用し、百按司墓から持ち去られ、現在は京大にある遺骨番号のデータを記載した。

【2018年1月21日掲載】