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越えてきた危機 第22回山形

豪雪が鍛えた団結の思い
第22回大会2区で区間2位と好走した山形の熊坂香織(6)=2004年1月11日

 「山形 快走4位」。2004年1月12日、山形県の地元紙・山形新聞の朝刊1面トップに大きな見出しが躍った。前日の第22回全国女子駅伝。山形チームは過去最高の13位を大きく上回り、県記録も2分以上塗り替えた。笑顔でゴールするアンカーの写真が紙面に花を添えている。

 「みんなが団結した。やればできることを証明できた」。現在も監督を務める吉田進(52)=山形城北高教員=は感慨深げに話す。だが「快走」までの道のりは、決して平たんではなかった。

 山形は第12回大会まで30位台後半から40位台が指定席だった。県内に実業団チームがなく、中高生の実績も乏しい。第1回大会では中学生が最終区の10キロを走るほど、台所事情は苦しかった。

「ふるさと」追い風

山形新聞は1面トップで山形チームの4位を報じた(2004年1月12日)

 吉田は89年に山形城北女子高(現山形城北高)に赴任、県チームの指導陣にも加わる。「競技人口は少ないし、選手も私ら指導者も全国で戦う意識が足りなかった」

 89年に全国高校女子駅伝、93年には全国中学駅伝がスタートし、県全体で育成に本腰を入れ始める。第12回大会から導入された「ふるさと制度」も追い風になった。山形城北高が全国高校駅伝の常連となり、同高の選手やOGが県チームの屋台骨を担うようになる。

 14度出場の熊坂香織(31)もOGの一人。卒業後に入った県外の実業団で、期待の大きさや故障に苦しみ、21歳で郷里に戻る。一度はシューズを脱いだが、吉田らに説得されて1年後に復帰、翌年の第22回大会でも好走した。籍を置く社団法人スポーツ山形21は、サッカーJ1モンテディオ山形の運営母体。女子駅伝部はいわば「妹分」で、地元に受け皿ができた意義は大きかった。

 一方、山形ならではの苦労もある。雪だ。今冬は特に積雪が多く、雪下ろし中に屋根から転落する事故が相次いだ。

 屋内施設を転々としたり、グラウンドの雪かきをしたり。練習場の確保だけでも骨が折れるが、「雪かきも一人だと限界がある。協力する姿勢が自然と生まれる」と熊坂。県競技スポーツ推進室指導主事の遠藤久(44)は「団結が必要な雪国の暮らしと、必死でたすきをつなぐ駅伝はどこか似ている。だから一層、選手の頑張りが県民の心に響くのでは」と話す。

高まる陸上熱

吉田進監督

 県を挙げての後押しが実り、山形は少しずつ順位を上げていった。第22回大会の4位に続いて、翌年は3位に輝く。熊坂は2区で区間新を出して泣き、3番目に競技場に戻ってきたアンカーを見て、また泣いた。吉田も感極まった。「帰ったらパレードをしないと。除雪車でね」

 山形チームは今、再び正念場にある。今年は30位。財政難で県の強化費が減り、少子化も止まらない。大黒柱の熊坂も今春で一線から退いた。

 3月11日には東日本大震災が起きた。停電や余震でチームの合宿も流れたが、吉田は「今も練習できない所がある。ここはまだ恵まれている」。何げない日々のありがたさ。「練習も同じで、毎日をどれだけ大事に過ごせるかにかかっている」

 山形駅近くの競技場に夕刻、中高生ランナーが練習のために集まってきた。吉田がしみじみと言う。「この中から第2、第3の熊坂が出てきてほしいね」。頭上に広がる大空は、遠く都大路に続いている。(文中敬称略)=第1部おわり

【2011年6月24日掲載】