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朝鮮通信使  日韓市民の記憶遺産に

 <誠信のまじわりと申す事>
 近江生まれの儒学者で、対馬藩の役として朝鮮通信使に同行した雨森芳洲が書き残した善隣外交の心構えである。
 <互いに欺かず争わず、真実をもってまじわり候を誠信とは申し候>
 先月亡くなった歴史学者、上田正昭氏が原文を読み下し、誠信のまじわりを今様の国際化のまじわりにおきかえても通用する、と本紙に書いている。
 江戸時代に朝鮮王朝が日本に送った外交使節団・朝鮮通信使の往来は、日本と韓国の関係を考える際に多くの示唆を与えてくれる。
 日韓の民間団体が先月末、朝鮮通信使にまつわる関連資料について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産への登録を申請した。その現代的意義はとても大きいと言いたい。
 両国の市民交流から芽生え、共通の願いとして手を携えた共同申請は初めてだろう。これまで記憶遺産に登録された中国の南京事件資料や日本のシベリア抑留資料は、国家間の摩擦となったが、市民同士の対話や相互理解が進めば、過去と未来を冷静に語れる政治的環境も見えてこよう。
 朝鮮通信使は室町時代に始まるが、豊臣秀吉の朝鮮出兵で中断。徳川家康が戦後処理で再開した1607年から1811年まで12回続いた。京の大徳寺などに宿泊、一行が往来した近江の道は「朝鮮人街道」と今でも呼ばれるなど、京滋に多くの足跡を残している。
 申請は京都市や長浜市、長崎県対馬市などゆかりの自治体などでつくる朝鮮通信使縁地連絡協議会と韓国の釜山文化財団が共同で2012年から計画を進めてきた。
 資料は当時の外交文書や絵巻、詩文など計111件、333点。雨森芳洲が対馬藩主に上申した外交指南書も含まれる。
 上田氏によれば、朝鮮王朝にとって通信使は秀吉出兵後の捕虜返還が目的であり、当初は互いに思惑や体面がぶつかった。しかし、芳洲と朝鮮高官は激しく論争しつつ、互いに一級の人物と認め別離に涙を流している。
 同行する音楽隊や曲馬の上演が耳目を集め、次第に民衆との交流が政治の思惑を超えて盛んになる。上田氏は国同士の「国際」に対して民衆の交流を「民際」と呼んで、朝鮮通信使について「民際交流の光が輝く旅路であった」と書いている。
 申請は17年の登録を目指している。日韓の市民にとどまらず、世界の記憶に残したい民際の歴史である。

[京都新聞 2016年04月07日掲載]

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