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野中広務氏死去  90年代政治に深い足跡

 1990年代の日本政治を動かした主役の一人として、深く大きな足跡を残したといえるだろう。
 内閣官房長官や自民党幹事長を務めた野中広務さんが死去した。 気迫あふれる弁舌で周囲を引きつけ、政局を動かしていった姿はいまだ記憶に焼き付いている。
 応召した経験から、アジアや沖縄へ深い思いを寄せていた。憲法改正が政治の場で議論されるようになった今だけに、野中さんが世を去った意味が重く感じられる。
 90年代の自民党は、旧竹下派分裂、野党への転落、自社さ政権、自自公連立など大きく変転した。そのほとんどの過程に、野中さんは責任ある立場で関わった。
 派閥政治の全盛期に国会議員となり、派閥の中で頭角を現し、党内で存在感を高めていった。この時代の政治家の典型でもあった。
 圧倒的な情報力で政敵の弱点を突く「政界の狙撃手」と言われた半面、男女共同参画社会基本法(99年成立)審議に深く関わり、ハンセン病患者に理解を示すなど社会的公平への思いものぞかせた。
 こうした多面的な顔と懐の深さが、与野党の違いを超えて多くの人を味方に引き込んでいった要因だったことは間違いない。
 旧園部町(現南丹市)の町議から町長、府議、副知事と歩んだ地方自治へのこだわりは、国政に身を置いてからも強固だった。
 それを物語る逸話がある。
 地方分権が叫ばれながら各省庁の抵抗で推進大綱がまとまらなかった94年、自治相だった野中さんは閣僚懇談会で「いつになったら上がってくるんだ」と発言した。これに多くの閣僚が同調し、大綱は早期決定の流れになった。
 「地方自治をやってきた者として、発言が一つのチャンスになればと考えた」と語っていた。その後、閣僚経験者として異例ながら地方制度審議会の委員も務めた。
 ただ、小泉純一郎首相の登場で規制緩和などの構造改革路線が始まると自民党そのものが変質し始めた。衆院小選挙区制導入で派閥の求心力が衰えたこともあり、野中さんは政界に見切りをつけた。
 派閥政治は「抵抗勢力」として否定されたが、その後の官邸主導は党内の異論を封じ、国会からは活発な議論が消えている。
 自らの歩みを自負し、権力闘争に捨て身で挑んできた野中さんの言動には批判もあるが、国政を動かす責任感と覚悟を感じさせる。
 享年92歳のベテラン政治家の人生を、今の政治家たちも学んでおいて損はないはずだ。

[京都新聞 2018年01月27日掲載]

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