Kyoto Shimbun 1998.6.15
「過去の日本の金融恐慌
の原因を突き詰めると、
一番の原因は人間の問題
にある」と語る小川教授
 金融恐慌 歴史から学べ
 滋賀大  小川 功さん

 ―バブル崩壊後のわが国の経済は、低迷の一途をたどっていますが。

 「金融システムをどうにかしなければというのは、ファイナンスや金融に関係している者にとって切実な問題。いろんなアプローチがあるが、私の場合は歴史的アプローチから考えてみたらどうかと。なぜなら昨年十一月から都銀の一部や四大証券の一部の破綻が連続的に起こっている現象は、平成恐慌とでも呼べるもの。どうみても単なる不況や一時的な足踏みではない。一種の金融恐慌であることに間違いはない。

 こうしたことが戦後なかったために、我々は初めてに感じるが、少し歴史をかじると、昭和二年春の金融恐慌やそれ以前に何度もあったのと今回とどこが違うのか。本質的に何が起こったのか。原因を突き詰めると、その銀行の経営者、行員のヒトの問題が一番の病理現象の原因。そのほかにも金融緩和、資産価格の暴騰などもあるが、一番の根本は人間の問題にある。ここを調べなければいけないと思ったわけです」

 ―歴史は繰り返すというわけですね。

 「そういう病理が遺伝すると考えれば、日本人のくぐった誤ち、過去と同じことを繰り返している可能性が強い。今回はそれが七十年たって出てきたというふうに考えられないかと。そこで昭和二年の金融恐慌を一つの手がかりに調べだしたんです。そこで起こっていることは、当時の銀行のオーナーが金融機関を私物化して、自分の関係している事業やファミリー企業に無担保の大口融資、大口投資をやり、土地、株、米の価格が上がった。

 彼らとファミリーはバブルの中で大もうけしようと考え、銀行の資金を湯水のごとく投入し投機をやった末に、大正九年ごろから株価や米価、土地価格が下落し、いわゆるバブルの崩壊が起こった。加えて大正十二年の関東大震災で大変な被害が出た。こうした資産価格の大幅下落と大震災の二つが重なった結果、積もり積もって昭和二年の金融恐慌が生まれたことは明らかです」

 ―昭和恐慌の際は不良債権の処理はどのように。

 「最悪の選択でした。完全な処理ができぬまま、外に向かってハケ口を求めるという形で、植民地支配に乗り出した。戦時景気に乗って中国、旧満州に進出した。時代は違うが、現在のアジア経済の破綻に日本も責任の一端があります」

 ―今回のバブル崩壊から学ぶことは。

 「一番の問題はバブルの後始末。責任はだれにあったのか、なぜ起きたのかの徹底的責任追及がなく、あやふやのうちにすまされている。山一証券の社内調査のようなレポートが世の中に出ていない。外からも力を貸して徹底的に調べ、公表して学ぶべきだ。戦前の金融恐慌では日銀は倒産した銀行を解剖した内部資料などを公表。二十数巻の資料集のうち三巻をこれにあてた。今回もそういうものをしっかり作って残せば学ぶことは多い」

 ―戦前の企業家は金融破綻の際どういう身の処し方をしていましたか。

 「個人財産を投げ出して預金者救済にあてるなど身の処し方がきれいだった。オーナーでない場合でも少ない資産を提供した。大正恐慌で倒産した横浜七十四銀行の茂木惣兵衛は、自分がなぜ誤ったか回顧して書き残した。百三十銀行の松本重太郎も立派だった。

 歴史は繰り返すというが、私はできる限り過去の事例を集め並べることで、その時期に共通してみられた病理現象、人間の異常な状態の分析と今日の事態とを比較するのが最終目標。私のささやかな研究が五十年後、七十年後の世代に役立てばと思っています」


 おがわ・いさお 一九四五年、滋賀県神崎郡五個荘町生まれ。神戸大経営学部卒。日本生命財務審査部部長補佐、同社史編さん室長、九州大経済学部客員教授、ニッセイ基礎研究所産業調査部長をへて、九三年から滋賀大経済学部教授。同大付属史料館長。専門はファイナンス市場、日本経営史。最近は明治以来の金融恐慌での金融破綻と現代とを比較検討し、歴史から何を学ぶかについて発言している。

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