製糸業営む山村に生まれ

  小学時代は母助け仕事

   丹波離れ80年、募る郷愁


 藤林 益三さん(最高裁長官)





今も残る藤林さんの生家。製糸業と木材業を営んでいた(日吉町田原)
 退官から二十五年近く過ぎました。司法改革で司法研修生増員が検討されているようです。私自身は増員の必要があると考えますが、なお議論が必要でしょう。裁判は膨大な法律をピックアップ、法令を解釈して結論を出します。判断力は裁判官の生い立ち、教育などあらゆる人間形成が影響します。

 裁判官の粒がそろわなければ、国民が迷惑するのです。また、現在の司法制度が被害者をないがしろにし、裁判結果の通知すらないのはいかがなものでしょう。

 私は五ケ荘村田原(現日吉町)生まれ。実家はまゆから糸を採ったり、材木を川で京都に運ぶ仕事です。産業革命で家業が衰え、父が亡くなりました。三歳で園部村の叔父宅に母、姉一人と一緒に引き取られました。他の二人の姉は京都市に奉公に行き、結核で早く亡くなりました。姉のことを思うと泣けてきます。

 法事で何度か馬車で実家に帰りました。板の座席が痛く、馬が暴れると子ども心にもたいへん恐ろしかったものです。

 母の苦労は並大抵ではありません。叔父宅で農業を手伝い、その後に移り住んだ園部の本町のしょう油店で掃除、洗濯とひたすら働きました。

 私も小学校に通いながら大人の自転車にしょう油樽を乗せ配達、集金に駆け回りました。園部の冬は寒く、樽の塩と雪の冷たさが指に突き刺さります。雪の坂道で自転車が倒れたり、掛け金を払ってもらえなかったり。母に比べれば大した苦労でもありませんが、大きな家ほど金払いが悪いこと、子どもとばかにされたことなど世間を勉強できたことは幸いでした。

 一方、園部の天神山、御廟所を走り回り、天神川でウナギ、コイを捕まえ、おやつにしました。小学校の友人とは同窓会を通じ、卒業後も親しく交流しました。が、次々亡くなり、片山藤七君しか付き合いがありません。寂しい限りです。

 担任の今西誠一先生と森新之助校長に旧制中学進学を勧められたが、母は「大阪で、でっち奉公をしてのれん分けを」と反対です。ところが摩気村出身で帽子輸出などで財をなした樋口勇吉さんが奨学財団を設立、奨学生第一号に選ばれました。

 丹波を離れ、八十年。母校の小学校、郷里への思いは募ります。そのころ付け始めた日記を読み返しながら、望郷の念にかられる毎日です。 (2002.4.7 掲載)

 ふじばやし・えきぞう  1907年日吉町田原生まれ。園部尋常高等小、京都三中(現府立山城高)、三高、東京帝大卒。76年に弁護士出身で初の最高裁長官。日本法律家協会会長など歴任。旧制高校の寮歌を好み日本寮歌振興会会長も務めた。東京都在住。

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