戦争、敗戦、旧制園部中学で

  歴史家として貴重な体験


 竺沙 雅章さん(京都大学名誉教授・宇治市)


 「満州(中国東北部)におる日本人、ろくなやつはおらん」。旧制園部中時代、満州国からの留学生2人と池のほとりで話をしていたら、留学生のひとりがぽろっともらしました。ちょうど、強制連行されてきた朝鮮人労働者の泣き叫ぶ声が、私たち3人の耳に聞こえていました。

 ふだんは明るく、批判的なそぶりは見せなかったのですが、学校で「校門は兵営の門に通ずる」と言われるなど、複雑な心境だったのでしょう。敗戦間近の8月、彼らは口丹波を去りました。戦後、学校に激烈な批判の手紙が届いた、といううわさを聞きました。

 戦時中も大部分の先生は、普通に授業を進められました。特に山形弁の日野友英先生は長髪で挙手もせず、体制に一線を画しておられました。戦後、急に「民主主義」を唱える先生がおり、不信感を持ちました。劇的な体制転換に立ち会えたことは、歴史家としていい経験でした。

竺沙さんが木炭バスの後ろを押した観音峠。丹波町側のトンネル入り口部分
 実家は、三ノ宮村粟野の無動寺です。竺沙姓は、仏教用語の「天竺沙門」に由来しています。小学6年で得度。それまでは「幹雄」でした。今も口丹波に帰ると、たまに、「みきおさん」と呼ばれることがあります。

 三ノ宮国民学校(現三ノ宮小)まで3キロほどで、わら草履が破れ、はだしで通ったこともありました。そのころ南京が陥落し、酒治志神社まで深夜のちょうちん行列がありました。私も高揚した気分で参加しました。他の戦勝記念で、児童全員にゴムまりが配られたこともありました。

 園中を志望しましたが身体頑健が求められており、視力検査を理由に落とされ、翌年に入学しました。毎朝5時半に自宅を出て、檜山から木炭バスに乗りました。バスは調子が悪く、観音峠で車体の後ろを、みんなで押したことも。歩いた方が早いことが多かったですね。

 3年で敗戦を迎え、その後、私たちの学年は新制園部高校に転入しました。下級生は男女仲が良かったののですが、こちらは急に共学になって互いに照れくさく、秋のフォークダンスが中止になってしまうほどでした。

 口丹波には、なだらかな山々が多く、険しさはありません。出身者も飛び抜けた人は少なく、おっとり鈍重な感じ。目立ちはせんが、こつこつ積み上げる性格が基本にあるように思います。(2003.8.10 掲載)

 ちくさ・まさあき  1930年生まれ。京都大学卒。宮崎市定氏に師事。専門は東洋史、仏教史、敦煌文書研究。京大人文科学研究所助教授、文学部教授などを経て現職。週末は瑞穂町に帰り、無動寺、龍福寺住職。同町文化財保護委員。宇治市在住。

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